多くの日本人が無関心だった「戦没者遺骨収集」…ある日突然、世論が沸騰した「決定的な理由」
なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。 民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が9刷決定と話題だ。 【写真】日本兵1万人が行方不明、「硫黄島の驚きの光景…」 ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。
横井庄一さん帰国が転期に
当時の政府の遺骨収集方針は、次の通りだ。 まずは、比較的協力を得やすい米国施政下の「南方八島」に収集団を送る。8つの島には硫黄島が含まれていた。それぞれの島に1~2日滞在し「象徴遺骨」方針に従って一部の遺骨を収容する。 この8つの島を皮切りに、政府は当事国と交渉して許可を得られたニューギニア、ビルマ、インド、フィリピンといった旧激戦地に1回ずつ収集団を派遣する。 象徴遺骨を納める地として1959年に千鳥ヶ淵戦没者墓苑を整備し、幕引きを図ることにした。当時の時代背景を考えると、こうした政府の対応はやむを得なかったとの見方は強い。帝京大の浜井和史准教授は2022年8月に行った講演でこう指摘した。 「1950年代における遺骨収集団の派遣というのは、高度経済成長前の日本において限られた予算、人員という制約の中で実施されたものであり、広大な地域に散在する遺骨を収容するにあたって現実的な方策であったといえるかと思います。遺骨収集団の派遣は、遺骨の早期収集を願う遺族や戦友たちの要望をある程度満たし、一定の社会的な役割を果たしたと評価できるかと思います」 実際、遺骨収集に対する国民の関心は低下していったようだ。新聞は国民の関心度の映し鏡だ。大手全国紙3紙それぞれのデータベース検索を使って調べてみると、各紙とも1960年代に入ると戦没者遺骨の関連記事がぐっと急減している印象があった。 しかし、その後、遺骨収集の再開を求める世論は突然、思い出したように沸騰する。1964年に日本人の海外渡航が自由化され、旧戦地を訪れた遺族らが多数の遺骨が残存している状況を目撃したことなどが背景にある。こうした世論に押される形で政府は1967年に遺骨収集を再開した。 当初は5年間で終了する計画だったが、1972年にグアム島で元日本兵の横井庄一さんが発見され、さらに遺骨を含む兵士帰還の関心が高まった。それにより、以後も継続する方針に転換された。その方針は現在に至るまで変わらない。日本遺族会などを中心に収集団を編成し、年数回派遣するという形式も同じままだ。こうした継続方針の延長線上に、僕も参加した「令和元年度第二回硫黄島戦没者遺骨収集団」があったのだ。
酒井 聡平(北海道新聞記者)