母の叫び声が聞こえた。空襲だった。庭木の枝が飛び散り、柱や壁に爆弾の破片が突き刺さった。火の粉の中で父はかやぶき屋根に上って、母が下から投げ上げる濡れた衣類で類焼を防いだ【証言 語り継ぐ戦争】
8月6日、広島に原爆が落ちた。当時、ラジオ放送は「新型爆弾」と声高に伝えていた。そして9日に見た光景は忘れもしない。よく晴れた日で、長島の方角の青空に、きのこ雲が「きれいに」見えた。長崎に原爆が落ちたことは後に知ったが、その下の惨状は全く想像できなかった。 終戦の玉音放送は集会場で聞いた。帰ってから父は「敗戦じゃなか、終戦じゃっで。負けたのじゃない」と言った。弁解に聞こえた。 身内に戦争の犠牲者はいない。米農家で食糧生産を担っていたからなのか、誰も兵隊に取られず、空襲でも大きな被害は免れた。戦争を語る会合にはよく参加しているが、私には語るような、悲しく深刻な体験はない。 「戦争はいけない」という思いは、多くの人が共通認識として持っている。その先が大事だ。先輩たちに戦争への加担を問うと「気付いたときにはどうにもならない。身動きできなくなってしまっていた」と答える。「戦争する国」への歩みにつながる小さな出来事を、しっかり把握できる資質を国民が持たなければならない。
(2024年10月7日付紙面掲載)
南日本新聞 | 鹿児島
【関連記事】
- 出撃前夜、5歳の私をひざに乗せ「若鷲の歌」を歌った特攻隊員さんたちは、翌日わが家の上空を3度旋回して南の空へ。楽しく見えた胸中を、今思うと胸が張り裂けそうになる【証言 語り継ぐ戦争】
- 軍人になる男子第一の時代…9人娘のわが家には入隊時の「鎮台祝」も無縁だった。戦後、3人の娘に恵まれた。肩身の狭い思いはない。平和な世の中が一番だ【証言 語り継ぐ戦争】
- ラジオで天皇陛下の声を初めて聞いた。兵士は泣いていたが「これで帰れる」というのが一番だった。汽車と徒歩でたどり着いた故郷は焦土と化し、板戸に消し炭で書かれた伝言を手掛かりにやっと家族と合流できた【証言 語り継ぐ戦争~学校報国隊㊦】
- 長崎の魚雷工場に学校報国隊として動員された。最初は修学旅行気分で楽しかったが、夜になると皆泣いた。作業場は山中に掘られたトンネルの中。軍歌を歌い行進して毎日通った【証言 語り継ぐ戦争~学校報国隊㊤】
- 内地の子どもたちも頑張っているよと懸命に描いた慰問の絵から、教師は赤い太陽をナイフで削り落とした。夜明け前からやっているとのメッセージにしたかったのか。国全体が暗かった。【証言 語り継ぐ戦争】