関ヶ原決戦前、東軍が決起した徳川家康の「小山評定」とはなんだったのか⁉
関ヶ原の戦いはあまりにも有名な戦いである。この戦いの前に東軍(徳川方)が決起した会議があった、それが「小山評定」である。 ■内府ちかいひ条々は家康にとっても青天の霹靂 徳川家康は、上杉景勝を征討するため会津に向かった。ところが、慶長5年7月17日、三成を中心とする反徳川勢力は「内府(ないふ)ちかひの条々」を全国の諸大名に発し、家康への宣戦布告を宣言したのである(「真田家文書」)。条文は全部で13カ条にわたっており、その主要な主張を要約すると、以下のようになろう。 (1)五奉行である石田三成、浅野長政を蟄居に追い込んだこと。 (2)前田利長を追い込んだうえに、景勝を討ち果たすために人質を取ったこと。 (3)景勝に何ら落ち度がないのに、秀吉の置目(おきめ/法令)に背いて討ち果たそうとしていること。 家康は三成を佐和山に蟄居させたあと、「内府ちかひの条々」に署名した長束正家、増田長盛、前田玄以と有効的な関係を築いていた。したがって、彼らが反旗を翻すなど予想すらしなかった。大変驚いたのは、想像するまでもない。 しかも、大坂から北関東までは遠距離だったので、謀反の情報を得るのに時間がかかった。家康が「内府ちかひの条々」を知ったのは、6日後の7月23日頃だったと考えられている。 ここで家康はこのまま会津に向かうか、反転西上するか決断を迫られたが、後者を選択したのである。 慶長5年7月25日、石田三成の挙兵を知った家康は、下野国小山(栃木県小山市)に諸大名を集め評定を催した(「小山評定」/おやまひょうじょう)。しかし、近年では「小山評定」があったのか、なかったのか議論になっている。以下、その点について検討することにしよう。 小山評定に関する一連の流れは、次に示す兵学者・宮川尚古『関原軍記大成(せきがはらぐんきたいせい)』(正徳3年〈1713〉成立)によって流布した。 同年7月24日、下野国小山に到着した家康は、三成が挙兵した事実を知った。家康は下野国宇都宮にいた徳川秀忠を呼び戻し、翌25日に小山で評定を行うこととした。 この評定で、家康は三成らが挙兵した事実を知らせ、三成ら西軍に与く みするか否かは、各自の判断に任せると告げた。そのとき福島正則は率先して家康に与することを宣言し、人質となった妻子のことは顧かえりみないと演説した。 諸将は正則の言葉に次々と賛意を示し、一同は「三成らを討つべし」という結論に至った。そして、先鋒として正則と池田輝政(いけだてるまさ)を清洲城に向かわせたのである。また、駿河国掛川城主・山内一豊(やまうちかずとよ)は、自身の城を供出すると申し出た。 すると、東海道沿いに居城を持つ武将たちは、こぞって同じ申し出を行った。こうして家康は宇都宮に次男の結城秀康(ゆうきひでやす)を置いて、諸大名らと26日以降、次々と西上することになったのである。 監修・文/渡邊大門 (『歴史人』2023年2月号「徳川家康の真実」より)
歴史人編集部