「生存に不利」なはずなのに、なぜ我々人間には「モラル」があるのか…科学者たちが奮闘の末に解き明かした人類の進化の「謎」
進化を否定する有神論者
協調性と利他性はそう簡単に身につく特性ではない。かなりの障害を乗り越えなければならないはずだ。そして協調性と利他性が身についたあとも、そのような障害はとどまりつづけて道徳傾向を脅かすため、せっかく手に入れた協調性もいつ崩壊してもおかしくない。その際、最大の問題は、ほぼあらゆる場面で非協力的な態度、つまり自分の利益を最大にする行動が選択としては最善であるという点にある。 不幸なことに、この点は例外なくすべての人に当てはまる。そのため、道徳規範のバランスは決して安定することはない。 協力は最適解ではなく、したがって選択される可能性も低い。この事実から、進化論的な疑問が浮かび上がる。利他的・協調的な傾向は―少なくとも理屈では―必然的に“生殖適応度を下げる”要因であるはずなのに、進化はなぜこの傾向を獲得する方向へ進んだのだろうか?“私”にとって、“他人”を助けることに何の得があるのか?自分自身の利益よりも集団の幸福を優先することに、何らかの見返りがあるのか? 進化を否定する有神論者にとっては、進化論では人間の利他的なモラルを説明できないという点こそが、お気に入りの論点だ。 彼らにしてみれば、道徳こそが人間の本質の起源は神にあることを示すとっておきの切り札なのである。進化論、特に「適者生存」の考えに簡略化された進化論を信じるなら、人はつねに自分の利益のことだけを考えて行動するはずだ。
未だに残る「協調の謎」
だが、隣人同士は互いに助け合うし、子供のために自分を犠牲にすることもあるではないか。友情も、コミュニティも、連帯も実在するし、隣人愛も成立する。神は存在しないと考えた場合、人間のモラルは大きな間違いのように感じられる。それどころか、無神論者が肩をすくめて事実として受け入れるしかない、説明のつかない謎、科学的な異常事態だ。 だが、宗教擁護派が頻繁に口にする「利他性と無私無欲は進化によって獲得された性質ではない」という主張は、ただの神話に過ぎず、今や完全に論破されている。その一方では、神を信じない進化論者や哲学者は、神を議論から完全に締め出すために自然をあまりにも誇張する傾向がある。そのような態度は慎んだほうがいいだろう。 確かに、進化論研究はこれまで多大な成功を収めてきた。それでもなお、知識には今も隙間が存在し、わからないことが存在すると認める謙虚さは必要だろう。何が人間に協調性を授けたのか、協調とはそもそもどのような仕組みで成り立っているのか、まだ完全にはわかっていないのだから。 実際のところ、有神論的な見方を否定できたのは、道徳の誕生と普及の仕組みを完全に解明できたからではなく、長い時間をかけて自然主義的な説明を重ねてきたことの成果だと言える。19世紀末の時点では、進化論において協調とモラルは完全な謎と位置づけられていた。 しかしその後の年月を通じて、道徳に関するたくさんの側面が満足のいく形で解明された。だからこそ、残りの謎もそのうち解明されると期待できるのである―「光がすべてを照らしつつある」。 『“人間”が利他的なのは“遺伝子”が利己的だから!?…生物学者が唱えた「モラルと進化の謎」を紐解く衝撃の視点』へ続く
ハンノ・ザウアー、長谷川 圭
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