「核戦争の危機」から世界を救った、東ドイツの「顔のない男」代表的なスパイ作戦とその手口とは?
冷戦は東西スパイ合戦の様相を呈し、その中で多くのスパイが活躍した。特筆すべきは、旧東ドイツの秘密警察シュタージの対外情報組織(HVA)を34年もの長きにわたって率いた「ミーシャ」こと、マルクス・ヴォルフだろう。 長年、西側の情報機関はHVAのトップが誰か特定できず、その顔すら不明だったため、畏怖の念を込めて「顔のない男」と呼んでいたのである。ヴォルフは冷徹で頭の切れる男だったが、同時に人間の感情も知り尽くしており、それが多くのスパイを獲得することにつながったようだ。 ヴォルフの工作で最もよく知られているのは「ギヨーム事件」だろう。これは旧西ドイツのヴィリー・ブラント首相の個人秘書であったギュンター・ギヨームが、東側のスパイであった一件である。これにより当時の西ドイツ連邦首相府の機密情報や同盟国であった米英から提供された情報も東側に筒抜けとなり、ブラント首相も事件の発覚によって辞任している。 ギヨームは元々、HVAの腕利きスパイであり、1956年に東ドイツから西ドイツに逃れる大量の移民の中に紛れ込んで潜伏していた。西ドイツでギヨームは連邦首相府に採用され、身辺調査もパスし、首相の秘書にまで出世する。そしてこのギヨームの活動を取り仕切っていたのがヴォルフであった。 彼は冷戦後のインタビューで、最初はギヨームを首相側近にするような計画ではなかった、と話しているが、それは彼なりの謙遜であろう。最終的にギヨームの正体は、西ドイツの防諜機関の通信傍受によって暴かれ、74年にスパイ罪で逮捕されることになる。この時、その背後にいた「顔のない男」にも注目が集まるが、当時のヴォルフはまだ謎の人物のままであった。
さらにヴォルフは「ロメオ作戦」と呼ばれた、男性工作員による風変わりなハニートラップも実行している。当時の西ドイツでは女性の社会進出が盛んであり、ヴォルフが目を付けたのは、独身のキャリアウーマン、特に情報機関の女性幹部や政治家の秘書で、そこに長身で顔立ちの良い「ロメオ」と呼ばれる男性を送り込んでロマンスに持ち込んだ。 ロメオの多くは、西ドイツの公務員という肩書で、偽造の身分証を携帯しており、同時に複数の女性と付き合うこともあったという。最もうまくいった工作は、西ドイツの対外情報機関(BND)のソ連分析部副部長、ガブリエレ・ガストを籠絡したものだ。HVAのロメオが13年にわたってガストと付き合うことで、BNDの機密情報が東ドイツに筒抜けとなった。その間、HVA長官であるヴォルフ自身もガストと6回も面会し、ロメオとともに個人的な関係を確立することに尽力し、ロメオと3人で旅行もしたという。ヴォルフのガストへの期待がうかがえるエピソードである。 当時HVAが一番のターゲットにしていたのは女性秘書であり、西ドイツの首都ボンでは約30%の女性秘書が独身というHVAの調査まで残っている。冷戦期に西ドイツの防諜機関や警察が摘発したこの種の女性スパイの数は、58人にも上ったという。