迫る敵を前に、城門を「あえて全開」に… 「徳川家康」の行動から学べること
現代人も参考にした「兵法の教え」
一見、そんな手に引っかかるなんて……と思ってしまいそうです。しかし、退却を始めた敵に対して、「今がチャンスだ!」と一気に攻め込み、まんまと罠にハマって全滅するなどということは戦国の世ではよくある話。 逃げる敵を追うということは、実はそれほど危険な行為であり、相手の行動に「罠」の匂いを感じることも、武将の重要な才覚だったのです。 だからこそ、この「空城の計」は、威力を発揮するのですね。 この戦略、現代に当てはめると、どうでしょう。あえて、相手に自分の隙や弱みをさらけ出して油断させるとか、もう余裕がないのに平然を装う、あるいは逆に、まだまだ余力があるのに限界のフリをするなどでしょうか。 そうすることで、相手が手を緩めたり、迷ったり、疑心暗鬼になってくれたりしたら、 形勢不利からでも一発逆転を狙えます。 有名な『三国志演義』のなかに、天才軍師の諸葛孔明が、城に攻め入ろうとする敵軍を戦わずして追いはらった話があります。 孔明は、兵たちを隠して、城の門を開け放ち、自ら1人で相手からよく見える建物の上 で、悠然と琴を奏でたのです。 攻めてきた敵軍は、孔明の姿を見て恐れをなして逃げ帰ったといいます。 (ポイント)まだ奥の手があると思わせて、相手をひるませる。
逃げ場を失った石田三成が頼った相手
豊臣秀吉の死後、秀吉に仕えていた石田三成と、天下を狙っていた徳川家康が対立していたときのこと。家康は、石田三成を嫌う武将たちを次々と自分の味方に引き込んで、三成を孤立させていきました。まだ自分が動くのは早いと思いつつ、着々と天下取りの準備を進めていたのです。 ところがある日、三成を嫌う武将たちが石田三成の屋敷を襲撃してしまいます。
(問題)襲撃を受けて、なんとか屋敷からは脱出したものの、行き場を失った石田三成は自分が生き残るためにいったいどうしたでしょう?
(ヒント)三成は、イチかバチかであるところに逃げ込みました。 ・・・ ・・・ ・・・ (答え)あえて自分と敵対している徳川家康のもとに逃げ込んだ。 自分の命を狙って屋敷を襲撃してきた武将たちの総大将にあたるのは徳川家康です。にもかかわらず、石田三成は、その総大将・徳川家康のもとを自ら訪ねていき、こう言ったのです。 「もはや、家康様しか頼れる者はいない、助けていただきたい」 これには、さすがの家康も面食らったことでしょう。 おそらくは、「誰かが三成の首をとってくれればしめたもの」くらいに思っていたのに、 まさか、自分を頼って来ようとは……。 自分を頼ってきた豊臣方の人間を殺したとあっては大義が通らない……と考えたのか、家康は三成に、「わかった、命だけは助けよう。ただ、蟄居(ちっきょ=今で言えば自宅謹慎)しなさい」と伝えたのでした。 敵のなかに自ら飛び込むとは、まさに奇策。 結局はこの事件の翌年(1600年)には関ヶ原の戦いが起こって、石田三成は家康に完敗するのですが。とりあえず、このときの人生最大のピンチは、こんな奇策によって生き延びることに成功したのです。 石田三成が単身で徳川の屋敷に入り難を逃れたというこの話は、古い文献に残っているものの、現在では「のちの創作で事実ではなかったのではないか」といわれています。とはいえ、「本当に困ったときは、敵の懐ふところに飛び込むのもあり」という考え方は、学ぶところありではないでしょうか。