丹波哲郎、映画からテレビの世界へ――態度がデカすぎてホサれた時代の真実
---------- 『日本沈没』『砂の器』『八甲田山』『人間革命』など大作映画に主役級として次々出演し、出演者リストの最後に名前が登場する「留めのスター」と言われた、大俳優・丹波哲郎。 そんな丹波が、「霊界の宣伝マン」を自称し、中年期以降、霊界研究に入れ込み、ついに『大霊界』という映画を制作するほど「死後の世界」に没頭した。なぜそれほど霊界と死後の世界に夢中になったのか。 数々の名作ノンフィクションを発表してきた筆者が、5年以上に及ぶ取材をかけてその秘密に挑む。丹波哲郎が抱えた、誰にも言えない「闇」とはなんだったのか――『丹波哲郎 見事な生涯』より連載形式で一部をご紹介。 ---------- 「不自由な妻を支えるスター」丹波哲郎が妻・貞子に語ったこと
態度がデカすぎてホサれる
丹波の新東宝での出演回数は、1957年(昭和32年)を境に、一転して下り坂に向かう。 ベテランの監督たちから「態度がデカい」と不興を買い、暗黙の了解で起用されなくなっていた。57年の年間16本が、59年には8本に半減している。 丹波が70代になってから、新東宝の同僚だった高島忠夫に、「オレって、そんなに態度、デカかったか?」と確かめると、「ああ、デカかった、デカかった。昔から全然変わらないですよ」と苦笑された。 丹波は、相手が監督であろうとエキストラであろうと、同じ態度をとった。長男の義隆(よしたか)が俳優の道を選んだとき、丹波はひとつだけ心がまえを伝授している。 「おまえはこれから撮影所で監督さんに会って、なんて言うんだ? 『おはようございます』って言うなら、必ず守衛さんにもエキストラさんにも『おはようございます』って言え。守衛さんやエキストラさんに『おはよう! 』なら、監督さんにも『おはよう! 』だ。誰に対してもイーブンにしろ」 新東宝でホサれているあいだは、たとえ出演できても露骨な嫌がらせを受けた。丹波が画面に映り込まないように撮影され、少しでも映っていると編集でフィルムをカットされた。 周囲では、天知茂と宇津井健が順調に出世していく。彼らより10歳近くも年上の丹波は、相変わらず冷酷非道なギャングや時代劇の色悪の浪人者といった敵役ばかりで、エンディングまでに殺されて、あらかた画面から消えてしまう。 やむをえず空腹でもないのに「腹が減って動けません」とか「母が危篤でして」とか、その場しのぎの口実をこしらえて役をもらっていた。新東宝の重役のクルマが乗りつけるあたりで、上半身裸になり、これ見よがしに腕立て伏せや空手の稽古をした。 「売り込みなんか一度もしたことがない。歴代マネージャーに言ってることは、たったひとつしかないんだ。オレを売り込んだらクビだってな」 丹波は、有名になってからのインタビューでお決まりのように言ったものだが、新東宝時代に限れば事実ではない。逆に、「あいつは自分を売り込む天才だよ」と、ある監督など感心しきりだった。 『殺人容疑者』の刑事役で共に映画デビューを果たした土屋嘉男は、ドブ川に頭まで浸かって逃走する容疑者役の丹波と、撮影後、一緒に風呂に入った。 「アイツ、あの頃から駄ボラをよく吹くんだ。大きなことばかりね。2人で湯船に浸かりながらも、駄ボラばかり言っていた。僕はそんな奴を好む方だから仲良しになったね」(DVD『殺人容疑者』解説書の土屋嘉男インタビューより) 顔馴染みの小林昭二からは、「あんな嫌な奴と口なんかきくなよ」(同前)と忠告されている。土屋は黒澤明監督の『七人の侍』や『用心棒』の百姓役として、また小林はテレビの『ウルトラマン』の隊長役で知られる。 監督や俳優のみならず裏方の古株たちも、映画界での生き残りを懸けて、なりふりかまわぬ丹波の姿を見ていた。 丹波自身は、第1回にも登場した西田敏行に、「もし魔法が使えて、自由になんでも消したりできるとなったら、オレの新東宝時代の作品を全部消したいんだよ。すべてが恥ずかしい」と意外な真情を吐露している。