「金は後でいい」に好感 艦船、武器売買で巨利 トーマス・グラバー(上)
スコットランド出身の貿易商、トーマス・ブレーク・グラバーは21歳のときに来日しました。幕末の混乱の中、欧米の貿易商人たちと競うようにして、西南雄藩(ゆうはん)に艦船・武器・弾薬の類を売り込み、1860年代半ばには長崎の外国商館の最大手となりました。また幕末の志士たちの討幕に賛同し、渡英や訪欧を手助けすることで、日本の近代化に大きく貢献しました。 ずぼらとも抜け目なく世渡り上手とも言われるグラバーの商才はどこにあったのでしょうか? 貿易商グラバーの前半の人生を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
倒幕運動を側面支援 武器を売るも侠気も示す
長崎観光の目玉「グラバー園」は長崎港を眼下に見下ろす景勝の地にあり、「行ってみたい庭園」のナンバー1に選ばれたこともある。幕末にイギリスから渡来した豪商トーマス・グラバーの旧邸は今では国の重要文化財、世界文化遺産に指定されている。 1905(明治38)年、三菱財閥の2代目社長岩崎弥之助邸で行われた東郷平八郎元帥の「日露戦争凱旋祝賀会」の記念写真をみると、元帥の真うしろに山高帽をかぶったグラバーの巨躯がそびえている。同41年他界すると明治政府は勲二等旭日章を授けた。幕末から明治維新にかけてグラバーが日本の近代化にいかに貢献したかを物語る厚遇ぶりといえよう。時の政府指導者たちが若き日、グラバーの恩恵を受けていたことも手伝っているのかもしれない。 グラバーは薩長土肥、いわゆる西南雄藩を主たる顧客として倒幕運動を側面支援した。「おれは幕府に対する最大の反逆者だった」などとうそぶいた。維新後、武器の需要が激減し、倒産するが、岩崎弥太郎に取り入り、三菱顧問に就任したり、抜け目がない。日本人を妻とし、滞日52年に及んだが、日本に帰化することはなかった。 1862(文久2)年、幕府が国防力強化のため諸藩に外国艦船の輸入を許可するころから各藩が競って軍艦、武器を買い始めたため、軍需インフレの波に乗ってグラバーはボロ儲け。長崎に2万坪の屋敷を買い、お市という愛妾を囲い、豪奢な生活を営んだ。 「彼はスコットランド人特有の熱血漢で、商売をしながらも、3分の侠気を示した。今は金がないといえば、金は後でいいから船を持って行けという具合だったので、日本人の間では大変評判がよかった。1866(慶応2)年の長州再征の際、長州が幕軍を敗走させた精鋭の武器もこのグラバーを通じて買ったものだった。(神長倉真民著『日本資本主義由来』)