日本は「落ちるところまで落ちるしかない」のか?岸田首相交代では変わらない政治の貧困・劣化、中国・林語堂の皮肉から考える
「政治家としての自民党議員の偉大さ」
林語堂は「民族としての中国人の偉大さ」についても言及して、じつに興味深い指摘をしている。 中国人は「勧善懲悪の基本原則に基づき至高の法典を制定する力量を持つと同時に、自己の制定した法律や法廷を信じぬこともできる」し、「煩雑な礼節を制定する力量があると同時に、これを人生の一大ジョークとみなすこともできる」。 また「罪悪を糾弾する力量があると同時に、罪悪に対していささかも心を動かさず、何とも思わぬことすらできる」し、「革命運動を起こす力量があると同時に、妥協精神に富み、以前反対していた体制に逆戻りすることもできる」。 さらには「官吏に対する弾劾制度、行政管理制度、交通規則、図書閲覧規定など細則までよく完備した制度を作る力量があると同時に、一切の規則、条例、制度を破壊し、あるいは無視し、ごまかし、弄び、操ることもできる」。 ――ここまで引用して、「民族としての中国人の偉大さ」を「政治家としての自民党議員の偉大さ」に置き換えてみたら、と考えてみた。 キックバック問題や裏金に絡む政治資金報告書記載漏れ問題、昨秋に話題となり大いに顰蹙を買った「エッフェル塔姉さん」、近畿地区の若手議員が昨年11月に開催したパーティーにおける「トンデモ破廉恥余興」。岸田首相自らが率先して臨んだ政治倫理審査会でのやり取り、さらには政治資金規制法改正にかかわる一連の論議にしても、その発端から幕引きまでの軌跡を振り返ってみるなら、彼らの振る舞いは「よく完備した制度を作る力量がある」と同時に、「一切の規則、条例、制度を破壊し、あるいは無視し、ごまかし、弄び、操ることもできる」との林語堂の指摘から、そう懸け離れてはいないように思える。
人情を法制の上に置いてはならない
ならば、このような政治家の歪んだ振る舞いをどのように糾弾し、糺せばいいのか。林語堂は、次の処方箋を示した。 「中国が今必要としていることは政治家に対し道徳教育を行なうことではなく、彼らに刑務所を準備することである。〔中略〕中国が真に必要としているものは、仁や義でなければ名誉でもなく、単純明快な法による処罰である」 かくて林語堂は「人情を法制の上に置いてはならない」と、強く主張する。 これまで自民党議員が秘書給与詐取やら様々な利権に関連するスキャンダルへの関わりを報じられた際、自民党執行部やら岸田首相の“鶴の一声”で消え去ってしまった派閥の領袖や幹部連は「政治家の出処進退は神聖であるから、自らが決断すべきもの」と正論(タテマエ)を繰り返すことが常だった。テイのいい責任逃れだろう。