バレたら死刑の幕政批判、庶民不在の明治維新をかわら版はどう伝えたのか?
明治維新は歴史の教科書やドラマなどの中では、新しい時代の幕開けとして、華々しくドラマチックに描かれています。しかし、上から目線で描かれた史実と庶民目線の真実とは大きくかけ離れているようです。 庶民目線の幕末を記した史料の代表格といえばかわら版。それを読み解けば、庶民は旧幕府軍と新政府軍の戦いをどのように見つめていたのがよくわかります。もともとかわら版は幕府に発行を禁じられていましたが、ゆるいネタだと黙認されていることもしばしば。しかし、政治ネタを扱うのは御法度で、見つかれば死刑も免れなかったと言われています。そこは抜け目なきかわら版屋。庶民の知りたい気持ちに応えつつ、さらにヒットを目指す策を講じました。変わりゆく時代を庶民の立場で報じた幕末のかわら版を大阪学院大学、准教授の森田健司さんが解説します。
混乱する経済とその批判
今も昔も、庶民が政治不信になる第一の理由は変わらない。経済的問題、これである。 「衣食足りて礼節を知る」の通り、経済に不安を抱えると人は心の余裕を失う。そして、自分がそこに追い詰められたことの原因を、社会に求めようとするのが常である。 安政五ヶ国条約の締結によって、列強との活発な貿易が始まったが、それは必ずしも日本に利益をもたらすものとはならなかった。特に生活必需品の価格が乱高下することに、庶民は疲弊した。 冒頭に掲載した「泰平民の賑夢踊(にぎわいゆめおどり)」は、1866(慶応2)年における物価変動を諷刺した一枚である。描かれているのは、右下で座した絵師らしき人物の頭の中で、米をはじめとした「商品軍」(左下)と「貨幣軍」(右上)が戦を繰り広げている様子である。刀を持って戦う兵士の顔には「家賃」、「麦」、「鰹節」、「たばこ」、「酢」、「風呂賃」など、様々な商品の名が記されている。彼らが激しく戦う様子は、乱高下する物価を表現するものとして、見事である。 しかし、このような不安定な相場に対する諷刺は、政道の批判そのものであり、かわら版屋が意識的に避け、手を出さなかったジャンルだった。それにもかかわらず、なぜ制作したのだろうか。それは、取り締まる側の幕府が弱体化していたからである。 上方においては、1865(慶応1)年以降、将軍・徳川家茂が大坂城に滞留したことで、需要が高まった米の価格が高騰した。それは庶民の生活を直撃し、翌年の5月頃から各地で一揆、打ちこわしが連続した。そして、この動きは上方だけにとどまらなかった。文人・斉藤月岑(げっしん、1804~1878年)の『武江年表』には、1866(慶応2)年5月28日の南品川での一件を皮切りに、本芝、新和泉町、堀留町、本所茅場町などで、打ちこわしが続発したことが記録されている。 江戸周辺でも暴動が相次ぎ、役人たちも、かわら版の取り締まりなどにかまけている暇はなかった。