<最高の花道へ―センバツ’22・東洋大姫路>野球部の歴史/上 77年夏に全国制覇 優勝祝うパレードに13万人 /兵庫
第94回選抜高校野球大会に出場する東洋大姫路は1963年、学校の創立と同時に野球部が創部された。70年代には甲子園の常連校となり、77年夏に全国制覇。堅実な守備から試合のリズムを作り、全力疾走するプレースタイルは今でも引き継がれ、熱狂的なファンも多い。今春で通算20回目の甲子園出場となる東洋大姫路の野球部の歴史を振り返る。【後藤奈緒】 草創期から強豪校と呼ばれるまでチームを築き上げたのは「赤鬼青鬼コンビ」と言われ、いずれも監督を務めた梅谷馨さんと田中治さん(ともに故人)だ。当時を知る元投手コーチの近藤良三さん(82)は2人を「どちらか1人が選手を怒れば、もう1人がフォローする名コンビだった」と振り返る。 山陽特殊製鋼の社員だった梅谷さんが初代監督に就任すると、創部わずか6年で夏の県大会を制し、甲子園出場に導いた。大会後、姫路商の元監督だった田中さんを新監督としてチームに迎え入れた。梅谷さんはコーチに就き、日々、早朝から夜遅くまで長時間の練習に取り組んだ。72年夏、2回目の甲子園で初勝利を挙げると、73、74年の夏も出場。以降、兵庫から3年連続で夏の甲子園に出場したチームはないほどの快挙だ。 夏の甲子園では常連校となったが、春はなかなか出場できず「夏の東洋、春の報徳」と呼ばれた。75年に再び梅谷さんが監督に就任すると、田中さんが副部長に就き、チームを支えた。76年には悲願のセンバツ初出場を果たし、ベスト4の好成績を残した。播磨地方からセンバツに出場したのは36年の姫路中(現姫路西)以来、40年ぶりだった。 77年夏は、松本正志投手(元阪急)を擁し、決勝で大会初となるサヨナラ本塁打で優勝を果たした。姫路に深紅の優勝旗を持ち帰った選手たちを歓迎した祝勝パレードには市民13万人が押し寄せ、姫路駅前の大手前通りを埋め尽くしたという。その後も、79年春、82年夏にいずれも4強入り。85年は春夏連続出場し、86年夏には長谷川滋利投手(元エンゼルス)と嶋尾康史投手(元阪神)の2本柱の活躍で8強まで勝ち進み、強豪校として全国に東洋大姫路の名をとどろかせた。 ……………………………………………………………………………………………………… 甲子園の成績 監督 部長 できごと 主な選手(3年時) 1963 梅谷馨 大久保強 学校創立、創部 1969 夏1回戦 田中治(秋から) 甲子園初出場 1972 夏2回戦 甲子園初勝利 山川猛 1973 夏2回戦 1974 夏3回戦 藤田明彦 1975 梅谷馨 1976 春ベスト4 センバツ初出場 弓岡敬二郎 1977 夏優勝 全国制覇 松本正志、宮本賢治 1979 春ベスト4 1982 夏ベスト4 1985 春1回戦 夏3回戦 1986 夏ベスト8 長谷川滋利、嶋尾康史 〔神戸版〕