「誰かの真剣は、誰かの迷惑」…?迷惑をかけないことばかり気にする日本人が見落としがちな「おたがいさま」の精神
自分のためじゃない
Aさんが自分のやりたいことを必死になって提案するのも、Bさんが自分の考えを主張するのも、部活のためだと思っている。部活をよりよくするために、真剣に考えた結果だ。 ただ、自分が楽したいとか、自分に都合のいいやり方を提案しているんじゃない。 もしそうなら、それは「わがまま」で、「迷惑」と言っていいだろう。 でも、二人は自分のためじゃなくて、部活のために考えている。 こういう時は、どんなにぶつかっても「迷惑」じゃない。それは、「おたがいさま」なんだ。 「迷惑」という言葉が、呪いのように離れない人向けに言うと、「前回は、私が迷惑をかけました。ですから、今回はどうぞ私に迷惑をかけてください。次回は、また私が迷惑をかけるかもしれません。おたがいさまですから」ということなんだ。 たとえば、お隣さんが急病になって救急車が来たとする。夜中の2時とかね。翌日、隣の人に「夜中に迷惑かけてすみません。サイレンがうるさかったでしょう」なんて言われたら「おたがいさまですから」と答える。だって、自分もいつそんなことになるかもしれないじゃないか。それは迷惑じゃなくて、「おたがいさま」なんだ。 もう一度言うよ。練習のメニューでお互いが真剣になって、お互いの提案でお互いがぶつかるのは、「迷惑」じゃなくて、「おたがいさま」なんだ。 そんなふうに考えて生きてみたらどうだろう。 『コミュ力は「才能」でも「遺伝」でもない! やってみれば人間関係が激変する、コミュ力の磨き方』へ続く
鴻上 尚史