<躍進の先に―22センバツ日大三島>野球部の歩み/上 84年春、初の「聖地」へ 劇的な甲子園初勝利 /静岡
◇秋の県大会V、東海でも4強 第94回選抜高校野球大会(毎日新聞社、日本高野連主催)に出場する日大三島。1984年のセンバツで春夏通じて初めて甲子園に出場して以降、「県東部の雄」として存在感を示してきた。だが、近年は甲子園にあと一歩、及ばない状況が続いていた。野球部の歩みを県内の高校野球の歴史とともに振り返る。【深野麟之介】 「超満員の観客を前に、身震いした」。今から38年前の1984年3月。第56回センバツで、日大三島は初めて甲子園の土を踏んだ。当時の副主将だった長谷川記一さん(55)は「聖地」に足を踏み入れた瞬間をいまも鮮明に覚えている。 日大三島野球部は学校創設翌年の59年4月、当時の1、2年で発足した。「静岡県高校野球史」(県高野連発行)に当時の県内の高校野球の「勢力図」が記されている。その頃は静岡や静岡商、浜松商、清水東などの公立校が県の頂点を目指して争っていた。 日大三島が公式戦に初登場するのは59年の秋季県大会。そのときは、三島・田方地区予選を2勝2敗で終え、東部大会進出を逃している。その後は70年秋の県4強、77年夏の県8強などと上位に勝ち進むことはあった。ただし、甲子園出場に及ばない時代が続いた。 82年に入学した長谷川さんの代は、地元の三島市を中心に力のある選手が集まったという。北原弘志監督(当時)のもと、83年の秋季県大会でエースの飯塚和也投手を中心とした強力投手陣を武器に初優勝を果たした。 さらに、この大会は準優勝が富士宮西、3位が韮山。上位3校を県東部勢が独占した。有力選手が県中部に流れる傾向があった中、長谷川さんは「東部の強さを見せつけてやった」と胸を張る。静岡県高校野球史にも秋の東部勢の躍進について「ここしばらく、西高・中高・東低であっただけに、むしろ、よろこばしいことだった」とある。 続く東海大会は、東海地区の名だたる名門校を前に「余計に身構えてしまった」(長谷川さん)。それでも初戦で東邦(愛知県)に6―5で競り勝って4強入りする。準決勝で愛工大名電(愛知県)に惜しくも4―6で敗れたが、3枠目の「センバツ切符」をつかんだ(当時の東海出場枠は3)。 迎えた翌84年のセンバツは、1回戦で三国丘(大阪府)と戦った。エースの飯塚投手が五回に相手の先発投手に死球を与えると、観客から容赦ないヤジが飛ぶなどし、「甲子園の洗礼」を浴びた。 試合は3―5と2点をリードされ、九回裏を迎える。日大三島は押し出し四球で1点を返し、なおも無死満塁の場面で長谷川さんに打席が回った。二ゴロに抑えられたが、併殺崩れで1死満塁となる。続いて打席に立った飯塚投手が、右越えの2点二塁打を放ち、逆転サヨナラ勝ち。長谷川さんは1走として、2走と3走が本塁に生還する様子を見届けた。劇的な「甲子園初勝利」だった。 2回戦は大船渡(岩手県)に1―8で完敗。日大三島を降した大船渡は4強まで勝ち上がった。長谷川さんは「甲子園に出るのが夢だった。努力すれば、夢が現実に変わる瞬間があると実感した」と当時を振り返る。 日大三島は89年夏の甲子園にも出場した。しかし、その後は大舞台まであと一歩、届かない時代が続く。