海外からは「日本人」ってどう見えてるの?…ある人類学者が提唱した「超重要キーワード」
「罪の文化」と「恥の文化」
それに対して「恥の文化」では、善悪の絶対的基準となるものがありません。「恥の文化」にいる人々は、「世間の目」によって自分の行動を決めると言います。要するに、人からどう見られているかを基準にして生活を送っているのです。他人からの批評という外面的な強制力に基づいて日常の振る舞いが決められるのです。 日本人は、恥辱感を原動力としています。世間の目を気にしながら、恥をかかないように自己を抑制するのです。ベネディクトはそこから論を進めて、日本人たちは、恥をかくことがないように自分で自分を監視するために、「無我」の境地や「死んだつもりになって生きる」ことを理想としているのだと、とてもユニークな解釈を提示しています。 こうした分析の根底にあるのは、文化相対主義的な視点です。彼女は欧米の文化と日本の文化、「罪の文化」と「恥の文化」には優劣はないという前提から持論を展開しています。 ただ、『菊と刀』最終章の「降伏後の日本人」でベネディクトが述べていることは、文化相対主義と矛盾するかもしれません。ベネディクトは、アメリカの民主主義の理念である個人主義や契約の概念に合致しない非民主的な制度や慣習は廃止しなければならないと断じています。そして文化は学習可能だとするボアズ以来の見方に沿って、日本はアメリカの民主主義的な国家に生まれ変わらなければならないと唱えるのです。つまり、アメリカの民主主義という方便に、文化相対主義が無残にも組み込まれてしまっているのです。 「生のあり方」を探究するアメリカの人類学はここへ来て、現実への提言をする中で、大きな困難を抱え込んでしまったのだと言えるのかも知れません。 さらに連載記事〈なぜ人類は「近親相姦」を固く禁じているのか…ひとりの天才学者が考えついた「納得の理由」〉では、人類学の「ここだけ押さえておけばいい」という超重要ポイントを紹介しています。
奥野 克巳