内堀和也会長が自ら参列…捜査員20人以上の厳戒態勢の横浜に「稲川会の幹部十数人」が現れた特殊事情
「会長車両、入られます!」 午前中から30度を超える、うだるような残暑が続いた9月11日の夕方4時半前、神奈川県横浜市郊外に位置する斎場に、黒スーツに黒ネクタイ姿の屈強な男たちの声が響き渡った。 【画像】すごい…! 横浜市内で並び立つ「稲川会・内堀会長と六代目山口組幹部」オーラ写真 ほどなくして現れた“会長車両”、センチュリーから厳しい表情のまま降りてきたのは、稲川会・内堀和也会長(71)である。 「どうぞこちらです」 センチュリーまで駆け寄って出迎えたのは、六代目山口組の竹内照明若頭補佐(64)。斎場の控え室には、司忍組長(82)やナンバー2の髙山清司若頭(77)をはじめ、六代目山口組執行部の主な直参が顔をそろえていた。 この日、9月5日に訃報が流れた六代目山口組の直参で四代目益田組・山嵜(やまざき)昌之総裁の通夜が営まれていたのである。斎場には六代目山口組の最高幹部のみならず、益田組と友好関係にある各組のトップや幹部も参列しており、最後に到着した内堀会長を出迎えた。 ◆葬儀で出された「厳しい条件」 六代目山口組関係者がその内幕を明かす。 「益田組は田岡一雄三代目組長時代に山口組の関東進出の先兵として横浜で組織され、その地盤を築き上げた武闘派組織です。山嵜総裁は三代目組長で’23年に今の水島秀章四代目組長に跡目を譲った後、六代目山口組直参のまま益田組総裁となり、現役を続けていました。 直参の葬儀に司組長と髙山若頭が参列したことはこれまでもありましたが、首都圏でのそろい踏みは極めて異例。当局の警戒も厳しい中、滞りなく通夜を終えることができるよう、益田組幹部だけでなく竹内若頭補佐も先頭に立って参列者を出迎えていたのでしょう。竹内若頭補佐は内堀会長と五分の盃を交わしています。自ら出迎え、斎場までアテンドしていました」 警戒・警備に出ていた捜査員は、地元の神奈川県警はもちろん千葉県警や警視庁、兵庫県警など20名以上に及んだ。 「通夜葬儀は、あくまでも『山嵜家』の家族葬として行われています。午後5時からの一般の通夜受付の頃には終わらせる、組のバッジは付けない、外では挨拶を交わさないなど、当局から厳しい条件が出されていました」(稲川会関係者) ◆内外に示した六代目山口組との良好な関係 功労者である山嵜総裁の死を悼むべく、六代目山口組からはトップや主要な直参が数多く参列。それに見劣りしない規模で幹部陣が参列したのが稲川会だった。内堀会長のほかにも貞方留義理事長や池田龍治総本部長ら十数名が参列したのである。そこには同じ横浜市を地盤とする名門ヤクザ同士の義理があったようだ。 「稲川会の参列者は役職順には来ていなかった。益田組と関係の深かった稲川会傘下組織のトップや幹部が、それぞれのタイミングで来ていた。貞方理事長は三代目埋地一家の総長ですし、池田総本部長は十二代目小金井一家総長です。横浜は稲川会の主な地盤で、益田組も横浜が地盤ですから、義理の行き来がある一家が多い。それであの人数になったのです。指名焼香で、参列した組はトップから3人の席が用意されたと聞いています」(前出・稲川会関係者) 午後5時に参列を済ませた後、内堀会長は最初に斎場を出て、竹内若頭補佐ら六代目山口組幹部が見送るなか、センチュリーで帰路に就いた。竹内若頭補佐は参列者の退出を最後まで見届けてから斎場を後にしている。 「六代目山口組と稲川会の関係は強固ですが、今回の葬儀はそれを改めて世に示した。山嵜総裁の交友の広さが両者の絆をさらに深めたように思います」(山口組事情に詳しいジャーナリスト) 8月に六代目山口組と神戸山口組との分裂抗争が10年目を迎えた。その直後、宮崎県で六代目山口組系の組員が対立する池田組系幹部を射殺する事件が起きた。池田組の報復も予想される最中の葬儀だったが、司組長はじめ最高幹部は堂々と参列した。 「六代目山口組の団結力の強さを示したかったのかもしれません」 前出のジャーナリストの見解である。今回、滞りなく葬儀は終わった。これが、壮絶な報復合戦の“嵐の前の静けさ”ではないことを祈りたい。
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