血で血を洗い抜いた非情さから「肥前の熊」が通り名となった西九州の武将【龍造寺隆信】
龍造寺(りゅうぞうじ)家は、平安時代に平将門を鎮圧した伝説の武士・藤原秀郷(ふじわらのひでさと/巨大なムカデ退治の伝説もある)の末裔で、平安末期に備前国(びぜんのくに/佐賀県・長崎県)の龍造寺村に土着した。龍造寺隆信(たかのぶ)は、佐賀の水江城主・龍造寺周家(ちかいえ)の子として生まれた。幼い頃から利発であって『平家物語』を暗記で語るほどの才能も見せた。この才能を知った曾祖父・家兼(いえかね)が一族の未来のために、と出家させ、隆信は7歳で出家して「円月」と号した。この頃から隆信は振るまいが豪胆で荒々しかった、と伝わる。 龍造寺家は、佐賀の守護・少弐家に仕える一族であったが、本家と分家に分かれていて、隆信の家は分家であった。曾祖父・家兼以来、分家の龍造寺家が台頭してきたこともあって、これを恐れた少弐家の重臣・馬場頼周(ばばよりちか)に騙されて、一族の主だった者(祖父・父・叔父など)が一度に非業の死を遂げた。既に90歳を過ぎていた曾祖父・家兼が馬場への報復をしたが、この時に曾祖父は「気宇壮大な気質を持つ円月(隆信)しか龍造寺家を再興する者はいない」と遺言した。その遺言を受けて還俗した隆信は「龍造寺胤信」と名乗った。そのうちに本家の主人・胤栄が病死すると、隆信はその未亡人を正妻として本家を継いだ。「隆信」と名乗りを変えたのは、後ろ盾になってもらっていた周防(山口県東部)の守護大名・大内義隆(おおうちよしたか)の名前の1字をもらって元服した時のことであった。改名を機会に隆信は周辺の豪族との争いを繰り返し、徐々に勢力を拡大していった。 だが、大内義隆が重臣の陶晴賢(すえはるかた)に討たれ、大内家が滅亡すると後ろ盾を失った隆信は、独自の路線を進まなければならなくなった。これを機に、龍造寺本家の家臣であった土橋秀益らが周辺の豪族に内通して隆信の暗殺まで企んだ。 居城の佐賀城から逃れた隆信は、筑後の蒲池(かまち)氏を頼った。虎視眈々と返り咲きを狙っていた隆信は、天文22年(1553)には、佐賀城を奪還して土橋らを誅殺した。 その後の隆信は次第に冷酷な武将ぶりを見せ始める。かつての主家・少弐家を滅亡させると、肥前の豪族たちを次々に屈服させ、勢力を拡大していった。これに立ち向かう諸将は当時、九州最強を誇った豊後(ぶんご/大分県)・大友宗と協力して大軍で佐賀城を囲んだ。隆信にとって最大のピンチであった。従兄弟で義弟でもある鍋島信生(後に直茂)の働きで危地を脱し、この後は毛利氏とも組んで肥前を制圧し、勢いを駆って筑後にまで版図を広げた。 大友氏が「耳川(みみかわ)合戦」で島津軍に敗れて衰退したのを見て、隆信は筑前(福岡県西部)に攻勢を掛けた。こうして隆信は、筑前(ちくぜん)・筑後(ちくご)・肥後(ひご)・肥前(ひぜん)・豊前(ぶぜん)の5ヶ国を領有し「五州太守」を豪語した。そして隆信の冷酷さはさらに深まり「肥前の熊」とあだ名されるようになった。隆信の苛烈で容赦なく、冷酷さと謀略を全面に押し出す姿勢が、家臣団にも諸将にも嫌われ人望を失っていった。 天正12年(1584)、自分から離反した有馬晴信(ありまはるのぶ)を討つために6万の大軍で攻めるが、晴信に島津氏が援軍を出し、その決戦「耳川の戦い」で隆信は敗れ、首を打たれる。首を打たれる瞬間、隆信は「紅炉上(こうろじょう)一点の雪」(熱い炉の上に一片の雪を置くとすぐに消えてしまう。そのように、これまでの迷いが悟りとなって開けた)と悟りを述べたという。享年55。
江宮 隆之