「感謝してプレーを」コロナ禍に戦後重ね 46年前センバツで磐城指揮の御代田さん
戦後75年を迎える終戦の日の15日、オールドファンには懐かしいコバルトブルーのユニホームが甲子園に戻ってくる。この春、46年ぶりにセンバツ出場を決めた磐城(福島)だ。2020年甲子園高校野球交流試合第4日第2試合に登場する。前回センバツ出場時の監督、御代田(みよた)公男さん(83)=福島県いわき市=は戦争中に疎開を経験し、終戦直後の厳しい時期に野球と出会った。新型コロナウイルスに翻弄(ほんろう)された今の選手たちに自らの戦争体験を重ね合わせ、「野球ができることに感謝し、プレーしてほしい」とエールを送る。 【写真特集】センバツ交流試合の全ホームラン 御代田さんは毎年、8月15日に甲子園球場に鳴り響く終戦の日のサイレンを特別な思いで聞く。「75年前のあの日はとても暑い日だった」。友人と遊んだ後、帰宅するなり物干し竿(ざお)で父に殴られたという。「ちょうど敗戦の玉音放送を聴き、悔しがっていたところに、私がはしゃいで帰宅したもんだから腹立たしかったんだろうね」 御代田さんは1937年、福島県錦村(現いわき市錦町)に生まれた。国民学校1年の秋ごろから友人が疎開し始め、毎日のように防空訓練が行われるようになった。下校中、通りかかったトラック運転手に「上空に敵機がいる! 爆撃されるぞ!」と叫ばれ、半泣きで防空壕(ごう)まで走ったこともあった。 戦況が悪化した45年4月、県内の山間部にあった母方の実家に疎開したが、軍の基地や軍需産業が集まっていた軍都・郡山市を狙う空襲が日常的になり、「ドーン、ドーン」という爆発音が、約30キロ離れた疎開先でも聞こえた。不安と恐怖におびえた毎日だったという。 終戦直後に野球に出会い、暗い少年時代が一変した。7歳上の兄が野球を始めた影響で、自然とルールを覚えた。日々の食べ物にも事欠く時代。当然、道具はなく、布きれを丸めてボールにし、木を削ったバットで打った。わらを編んだグラブを使い、靴もなく、裸足で駆け回ったという。疎開先で中学、高校と進み、野球漬けの毎日を送った。「経済的なこともあり途中でやめようと思ったこともあったが、どの時代もいい仲間に恵まれ、野球を楽しんでいたから続けられた」と振り返る。 福島大を出て体育教師となり、73年に磐城高に2度目の赴任をしたときに監督に就任した。71年の夏の甲子園で準優勝するなど、当時の磐城は県内屈指の強豪。就任1年目の秋季県大会を制覇し、東北大会でも優勝して翌年のセンバツに出場した。 センバツでは初戦で敗れたが、御代田さんは「あの景色は一生忘れない。球場いっぱいの人、耳鳴りがするくらいの声援……。教え子たちがいつもよりも頼もしく見えたなあ」と懐かしむ。 新型コロナウイルスの感染拡大でセンバツが中止になり、部活動の休止や監督の転勤など多くの試練に見舞われた今年のナイン。御代田さんは「野球ができることは当たり前ではないと実感したと思う。いろんな苦労があっただろう」と気遣って、こうエールを送った。 「見ている人が気持ちのいいさわやかな野球を見せてほしい。それができたらきっと、あの聖地に『また来いよ』と言ってもらえるから」【磯貝映奈】