寺越友枝さん死去「自由に行き来できる日を…」日朝関係に翻弄された母の思い
北陸放送
1963年に石川県志賀町の沖合で行方不明となり、現在は北朝鮮に暮らす寺越武志さんの母・友枝さんが、2月25日に亡くなりました。40年近くにわたり、日朝関係にほんろうされた母親の思い。寺越友枝さんの激動の人生をふり返ります。 【写真を見る】寺越友枝さん死去「自由に行き来できる日を…」日朝関係に翻弄された母の思い 行方が分からなくなってから54年がたった2017年の5月11日、志賀町福浦漁港を訪れた友枝さんはこう語っていました。当時、86歳。 寺越友枝さん 「ここに来たら武志に会っているような気がして。生きていて自由に話もできない、行くことができない。こんな苦しいことがあるのかと思って」 1963年、当時中学2年の武志さんと叔父2人を乗せた漁船は無人の状態で港の沖合で発見。3人の姿は見つからず、遺体がない状態で葬儀が行われました。 ■死んだと思っていた息子からの手紙 しかし、それから24年後友枝さんのもとに死んだはずの武志さんから1通の手紙が届きました。 「長い間消息を知らせませんでしたので心配をおかけしましたが、ご安心ください」 1987年、39歳になった武志さんと北朝鮮で運命の再会を果たした友枝さん。息子の一時帰国を求め続ける中、最初の再会から10年後、拉致被害者の救済を求めるメンバーらとともにある行動を起こします。 寺越友枝さん 「ウチの武志を助けてください」 一時は拉致被害者の家族会にも期身を置きましたが、武志さんに影響が出るのではと息子をおもんぱかり、家族会を離れ一時帰国を求める署名集めなどに奔走します。 ■息子から突然の電話「(日本に)行こうと思っている」 そうした中、武志さんから1本の電話が入ります。 寺越武志さん 「誰かと会うんですよ」 武志さんはその直後、与党3党の訪朝団と平壌で面会。 寺越武志さん 「私も政治家ですから、朝鮮労働党の代表団として一緒に(日本に)行こうと思っている」 ■拉致なのか、拉致ではないのか その一方で武志さんは北朝鮮による拉致を否定します。 寺越友枝さん 「武志に聞けば、眠っていた、ムニュムニュ」