「多くの方に支えられ生きてきた」母亡くし一家離散…約20年ぶりに兄と再会 阪神・淡路大震災29年 遺族代表の男性が感謝の思い述べる
■鈴木佑一さんの「追悼のことば」(全文)
1月1日の能登地震で亡くなられた方に心からご冥福をお祈りします。 震災の日、5歳の私と母と兄の3人は、2階建ての「神戸母子寮」の建物の1階で生活していました。地震で建物が倒壊して私は生き埋めになっており、知らない人たちが私を助け出してくれました。そして、知らない女性の方が「この靴を履いて」と靴を渡してくれました。母はその時すでに死んでおり、兄は無事でした。 震災後、私と兄は父親のもとに引き取られたのですが、私だけが児童養護施設に預けられました。その日から私と家族の時計の針は止まりました。 施設で過ごしている間、父からの連絡はあったのですが、金銭を要求するので(施設の)金子理事長が私のことを守ってくれていました。私が18歳になるころ、父は家で孤独死していました。父とはほとんど会話することはありませんでした。 高校を卒業後、金子理事長の勧めもあり大学に進学しました。そのころの私は、すでに自分の中で家族とのつながりを切っており、私の心は何も感じなくなっていました。それは私がこれからの人生を自分一人の力で生きていかなければいけないと気づき、そう決めたからです。 当時の私は、とても怖かったです。一人でこのまま人生が終わっていくような気がして。そうはなりたくない怖さが私の唯一のエネルギーでした。生きるためではなく、死にたくないから勉強する、トレーニングをする、バイトをする、そんな毎日でした。自分で手にする何かをがむしゃらに探していました。そうでないと不安で眠れないような毎日でした。 そんな毎日を過ごしていくうちに、私は当時母子寮の職員であった岡本先生から母の形見と手紙を受け取りました。手紙には、震災の後に私と父とを引き離してしまってごめんなさい、と書かれていました。母がよく私を膝の上に抱っこしていて、「私はこの子がいるから大丈夫」とよく言ってくれていたと。寂しいときは鏡をみて笑ってごらん、ゆうちゃんの顔はお母さんそっくりだよ、と書かれていました。このとき私は初めて母に愛されていたのだと実感できました。 私はその当時、岡本先生に会うことができませんでした。かすかに先生の記憶を覚えており、すごく自分にとっていい方だと感じてはいたのですが、どうしても自分の中で会うことができなかったのです。当時の私は生きるためだけに必死で、誰も私の心の中に入ることができなかったのです。 大学では、自分の恩師となる先生と出会い、息子のように面倒を見ていただきました。社会に出てからも仕事の域を超えて相談できる人たちも増えていき、本当に助けていただきました。私はこのような経験を経て初めて困った時に人に素直に頼ることができました。困った時に助けてほしいと素直に言える。このことが、私が人に感謝をするきっかけになりました。自分が助けていただいたからこそ、困った時に何かをしてあげたいと本当に素直に思えるようになったのです。このような人間関係が本当に自分にとって大切だと思い始めてきました。 そして私は、(5年前に)岡本先生から私に会いたいと手紙をいただきました。そのとき、私は岡本先生から今まで私のことを心配してもらっていたことに初めて気づき感謝しました。そして心から岡本先生に会いたいと思いました。 先生と再会すると、本当に僕のことを心配してくれており、自分にとって大切な方だと実感しました。そして震災当時、自分が住んでいた地域のことを教えてくれました。 私は自分の家族のルーツを探し始めました。その途中でも多くの方々との出会いがあり、初めて自分の親戚に会うことができました。親戚に、私にはもう一人の異父の兄がいると知らされて、もう一人の兄とも会いました。異父の兄は、母の墓に連れて行ってくれました。 岡本先生はずっと私の実の兄のことも心配しており、兄のことについても話をしてくれました。兄は私に今まで何もしてあげられなかったことに対して責任を感じており、今更どのような顔をして会えばいいのかが分からないと、自分は兄として私に会う資格がないと、泣きながら岡本先生に電話をしたそうです。 私は人に感謝をすることを感じて生活していくうちに、震災があって兄が苦労したことも自然と分かるようになってきました。兄も実の母を亡くし、悲しい中、あまり育児が得意でない父と一緒に暮らしていて苦労して当たり前だったと思うようになりました。そんな中でも、私に対して責任をずっと感じて今まで生きてきたのだと思いました。 私は兄に会いたいと思い始めました。それは兄に幸せで生きていってほしいと伝えたいからです。私に何もできなかったことを悔いて生きてほしくはない。胸を張って幸せに生きてほしい。これは私からしか兄に伝えることができないと思いました。 私は兄の居場所を探し始めました。そして、多くの方の情報提供のおかげで、兄の居場所が分かりました。私は兄に会いに行く前に金子理事長に相談しました。金子理事長は言いました。「自分の中で抜けている家族の時間を埋めることは、これからの自分の人生を豊かにしてくれる。今の自分なら困った時に頼れる人もいるから自信をもって会いに行きなさい」と。この言葉に本当に励まされました。 私は11月末ごろに、兄と再会しました。私が兄に伝えたかったメッセージを伝えることができました。兄は「会いに来てくれて本当にありがとう」と言ってくれました。兄はとても優しく、責任感の強い方でした。 今日1月17日、私は初めて兄と一緒に母の墓参りに行きます。29年前、止まった私の家族の時間が今日やっと動き始めます。 ここまで生きてられたのは本当に多くの方に支えられ、お世話になったからです。今まで29年間、私を見守ってくれた神戸実業学院の金子理事長をはじめ職員の方々、私の先輩、後輩たち、本当にありがとうございます。今まで私と兄のことを心配してくれた岡本先生、本当にありがとうございます。私を息子にようにかわいがってくれた先生、私の兄の住所を探すのに協力してくれた社長、本当にありがとうございました。ここでは名前を挙げることはできませんが、それ以外の本当にたくさんの方々にもお世話になりました。ありがとうございます。 よく聞かれたことがあります。あの時、震災がなかったらどうなっていたかと。私は震災で大切な母を失いました。しかし、震災の後に多くの素晴らしい方々に出会い、本当に支えてこられてきたことも事実です。 私は今の自分がすごく好きです。それは自分の人生で何が大切かを本当に心から感じることができているからです。周りに支えてくれる人たちがいる。そしてその人たちに感謝をして、何か少しでも恩返しをしていく。私にできることは何か。自分が経験した震災のことを伝えて、一人でも誰かの役に立てたらと思い、今日この場所に立たせていただきました。 今日はこの寒い中、長時間私の話を最後まで聞いていただき、皆様、本当にありがとうございました。 令和6年1月17日 鈴木佑一