「英語教育」に莫大な時間とエネルギーをかける必要はあるのか?――東大の右翼学生が提起した「英語教育廃止論」
英語教育廃止論の3つのポイント
高木らの英語教育廃止論のポイントは、次の三点にまとめられる。第一に、日本の教育における英語偏重教育は青少年から「莫大の時間とエネルギー」を奪い、無味乾燥な英文解釈が学問への関心を喪失させている。本来、英語に割かれる時間は「日本精神思想の研究」に向けられるべきである。そうすることで、日中戦争から「世界救済」へと進む「日本の根源的エネルギー」としての青少年が養成される(宮脇昌三「英語教育廃止の文化的意義」、同右)。 第二に、オクスフォードやケンブリッジが日本語一科目の入試を実施して合否を決めるなどということは絶対にあり得ないが、日本の大学、しかも東大法学部ではそれが堂々とまかり通っている。考えてみればおかしな話で、これでは日本の大学はまるで「英国の植民地」である(宮脇、同右)。語学偏重入試とは、「拝外自屈」感情の所産にほかならない(夜久正雄「教育改革の一課題としての英語問題」、同右)。 第三に、もはや「今日文化的に特に英国より学ばねばならぬものは一つもない」(高木、同右)。日本は東洋と西洋を包摂する存在であり、西洋文化は「余すなく日本文化に摂取せられ」ている。加えてイギリスは「有色人種に対する飽くなき残虐誅求」の元凶であり、「世界人類の敵」である(宮脇、同右)。
日本の優越性をかき口説いて陶酔する右翼青年の姿が浮かび上がってくるようだが、彼らは英語教育を全廃しろと主張したわけではない。師である三井甲之の『原理日本』もそう宣言したように、日本は「東西文化融合統一」の地である。したがって、英語を媒介として「英語国民の心意」を「徹照批判説伏摂取」することも重要である。問題は、受験目的の英語偏重教育が「国民的信念感情の養成錬成」を妨害していることにあった(夜久、同右)。 実は、彼らは自分たちが世の中からどう見られているか十分に意識していた。英語教育廃止論にせよ、世間から「又ぞろ右翼がつまらぬことをいひ出した」と思われることもわかっている。「敵を知るのは百戦百勝の原理」であるとか、「外国語を排斥するなど大国民の襟度(きんど)ではない」といった反論も、百も承知である(桑原暁一「英語教育の再考を要望す」、同右)。「日本精神」を追究する自分たちが偏狭で凝り固まった集団だと見られていること、頭のよい学生は左傾化するのが自然で、馬鹿が右傾化すると思われていることもよく知っている。 しかし彼らからすれば、その認識こそが古いのである。それは「日本と云へば小さく、世界と云へば大きいと思ふ低級思想」にすぎない(小田村前掲論文)。 ※本記事は、尾原宏之『「反・東大」の思想史』(新潮選書)に基づいて作成したものです。
尾原宏之(おはら・ひろゆき) 1973年、山形県生まれ。甲南大学法学部教授。早稲田大学政治経済学部卒業。日本放送協会(NHK)勤務を経て、東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。専門は日本政治思想史。首都大学東京都市教養学部法学系助教などを経て現職。著書に『大正大震災 忘却された断層』、『軍事と公論 明治元老院の政治思想』、『娯楽番組を創った男 丸山鐵雄と〈サラリーマン表現者〉の誕生』、『「反・東大」の思想史』など。 デイリー新潮編集部
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