【知っておくべき世界遺産】平泉はどのように「黄金郷」へと発展したのか?
世界遺産・平泉。この地が黄金郷へと発展した経緯は、どのようなものだったのだろうか。 ■奥州藤原氏の拠点・平泉が〝黄金郷〟に発展するまで 奥州藤原氏初代清衡(きよひら/1056~1128)は、12世紀初頭頃に平泉に政治拠点を移した。それは「平泉館(ひらいずみのたち)」と呼ばれる。 清衡の血筋は、平将門の乱を鎮めた藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の後胤(こういん)であることから、武士の名門。その後、東北地方に移り住み、地元の有力者との婚姻関係を重ねることによって、大きな力を得ていった。 平泉の地を選んだ大きな理由は、租税を集めやすい水陸交通の要衝地、すなわち東北随一の大河である北上川(きたかみがわ)と、のちに奥大道(おくたいどう)と呼ばれる東北縦貫道、さらには日本海や太平洋に通じる東西路の結節点であったからである。 清衡の父は、前九年合戦で敗北して生け捕られ、処刑される間際まで、無断で租税を集めたことを長官である国司に責められ続けた。すなわち為政者にとって、徴税こそが不可侵の権益であったことの表れであり、清衡はこの頃にはすでに実質的にその任にあったのである。 さらにこの平泉の地勢は、東を流れる北上川を青龍(せいりゅう)、西の丘陵を縦貫する道を白虎(びゃっこ)と、縁起が良いとされる四神相応(しじんそうおう)の地に見立てることが、図らずも可能であった。 清衡は、徴税という実務に適したこの地に、浄土信仰を取り入れ人心収攬(じんしんしゅうらん)を進めていく。その第一歩として、関山(かんざん)丘陵に中尊寺の造営を始めた。 近年の研究によって、この地域には前身となる寺院がすでに存在していた可能性が指摘されている。平泉館を建設する地に最も適しているのが、現在の中尊寺境内であるが、ここに設けられなかったのはそのためとも考えられる。しかし清衡は、先行する寺院をまとめ上げ、それらに乗る形で中尊寺を創建したのであった。 だが清衡の命運は、ここをもって尽きる。この段階の平泉には、平泉館と中尊寺しか存在しておらず、とても都市と呼べるような面的な広がりはなかったとはいえ、これらを実現するには、莫大な財源が必要だったことはいうまでもない。 平泉の屋台骨は、馬の鞍(くら)に使うアザラシの皮や矢羽(やばね)の原料の鷲羽などの北海道の産物と、馬や砂金である。とりわけ砂金は、最も身近な北上山系が当時の主産地であったことも、平泉には功を奏した。 これらによって、海外からも多数のものが持ち込まれている。金色堂を飾っている象牙や東南アジア産の紫檀は、その代表格といえる。 砂金は、当初は富としてではなく、仏像を荘厳(しょうごん)するために必要とされたために集められたのである。したがって平泉において造仏が盛んになると、多くの砂金が集中するようになり、そしてそれらは、毛越寺や無量光院をも飾ることになる。巨大寺院が目を引く最盛期の平泉は、黄金郷とも称されるようになるのであった。 監修・文/八重樫忠郎 歴史人2024年3月号「奥州藤原氏の栄華と没落」より
歴史人編集部