『いいとも!』終了から10年、今も語られる凄み、公開収録の「新宿アルタ」は2025年営業終了へ
そこで振付師の土居甫にかけようということになった。だが仕事先にいた(このときはまだ携帯電話は普及していない)ため、桜田淳子の代わりに番組ディレクターの小林豊、通称「ブッチャー小林」が電話をした。 そもそもはアイドルの伊藤つかさにタモリが会いたいという目的で始まったという。それは、1985年7月8日に実現した。 以降は、タモリが10代の頃から憧れ続けていた吉永小百合につながることが目的になった(結局、それは達成されなかったが、番組最後の「グランドフィナーレ」で吉永は中継で登場し、タモリを労った)。
この「テレフォンショッキング」には、恒例行事のようなものもあった。 たとえば、いまでは多くのひとが忘れているかもしれないが、開始当初は、歌手のゲストの場合、その場で持ち歌を歌ってもらうシステムがあった。ただしそれは、スタッフにとっては苦肉の策で、歌を歌えないなら出演させないという芸能プロダクションが当時あったからである。 だが1982年10月20日に出演した梓みちよが「せいぜい二~三分の曲を歌うより、その間にしゃべっていた方が、番組のためにもなるし、私自身のためになるから歌はやめましょうよ」と言い、歌わなかった。それがきっかけで、このシステムは自然消滅していった。
一方、ゲストが自分の出演するドラマや映画、新曲のポスターなどを持って来て、その場でセットの一角に貼ってもらうことは、長く続いた恒例行事である。タモリが「おーい、これ貼って」と裏に呼びかけるとタモリの付き人などが出て来てそれを貼るくだりはお馴染みのものだった。 これが始まったのは、偶然だった。たまたま新宿の劇場でミュージカル公演の舞台稽古をしていた谷啓と研ナオコが、宣伝しようとポスターを手にスタジオに突然現れ、セットの上手正面にそれを貼った。
普通なら、せいぜい一日くらいそのままにして剥がしてしまうところだが、スタッフは面白がってずっと貼ったままにしておいた。 それから「テレフォンショッキング」でも、ポスター貼りは恒例になった。番組としてハプニング性が重視されていたことの一例である。 ■タモリの安産祈願も恒例に また、その日のゲストが次のゲストに伝言を残すのが決まりで、それをタモリが手元のメモ用紙に書きつけるふりをしながら、実は女性器マークを描いて遊んでいることもあった(ゲストの横山やすしがそれをカメラに向けて見せてしまったこともあった)。
さらにその女性器マークが評判になり、ゲストが知り合いの安産祈願のためにそれが描かれた紙を所望する(その際、タモリは神主代わりとなって安産祈願をする)のもいつしか恒例になった。
太田 省一 :社会学者、文筆家