78年前の8月15日、11歳の少年は弟の遺体をおぶって焼き場に向かった 〝最後の空襲〟で奪われた命、「一日早く戦争が終わっていれば」【思いをつなぐ戦後78年】
秋田市史などによると、14日夜から15日未明にかけ、約130機の米軍機が旧日本石油秋田製油所を標的に約1万2千発の爆弾を投下し、250人以上が死亡した。爆撃は製油所の周辺にも及び、死者のうち90人以上は軍人ではない日本石油職員や市民などの民間人だった。 14日から15日にかけては秋田市のほかにも、群馬県伊勢崎市や埼玉県熊谷市でも空襲があり、多くの犠牲者が出た。 ▽空襲後の街へ、帰り道に知った終戦 土崎港への空襲が終わり、朝になった。富樫さんはランニングシャツの上におんぶひもで弟を背負い、死亡診断書をもらうため街に出た。早朝から出かけたが、診療所や病院はけが人であふれかえり、治療が優先だと断られた。ようやく診断書が手に入ったのは正午近くになってから。社宅へ帰る道中で、戦争が終わったことを知った。 午後には再びおぶって焼き場へ向かった。1年も生きられなかった弟の小さな体を焼くのに時間はかからず、骨はほとんど残らなかった。「正常な感覚ではなく、泣く余裕もなかった」
弟に布団をかぶせなければ良かったのではないか。戦争が1日早く終わっていれば―。後悔や無念が今も胸に残る。 ▽「焼き場に立つ少年」 取材中、富樫さんは1冊の写真集を取り出した。開いたページには、口を真一文字に結んだ少年が亡くなった幼子をおぶって直立する姿を映した写真が載っていた。 米軍の従軍カメラマンだった故ジョー・オダネル氏が、原爆投下後の長崎市で撮影したとされ「焼き場に立つ少年」として知られる写真だ。「私と似ている。こんな格好をしていた」とつぶやいた。かつての自らの姿を重ね合わせて写真集を購入したという。 今年の8月14日、富樫さんは土崎空襲の犠牲者追悼式に参列した。勇英ちゃんの顔を思い浮かべ献花台に1本のリンドウを手向けた。「本当に気の毒だったと思う。どんな理屈を立てようと戦争では子どもも含めて命が奪われる。絶対に嫌だ」とかみしめるように語った。 秋田市にある「土崎みなと歴史伝承館」には、旧日本石油秋田製油所の倉庫の壁や柱が移設されており、空襲の炎や熱の激しさが感じられる。他にも、投下された爆弾の不発弾や空襲で死亡した少年が着ていた学童服などが展示されている。