試行錯誤ばかりだったオカダ・カズチカの海外遠征時代! 情報封印もインパクトを増幅…もうひとつのレインメーカー・ショック(2)【週刊プロレス】
2007年7月に新日本プロレス入団を発表したオカダ・カズチカは翌8月26日、CTU興行でに再デビューを果たす。しかし対戦相手を務めた内藤哲也は、「体力的には入門テストを受けたなら絶対に合格しないレベル。練習に付いてくるのがやっと。ほかの新弟子だったら、夜逃げしていてもおかしくない。だけど、翌日にはケロッとして練習開始時間には道場にいる。この図太さはなんだろうって思いましたね。ただ、すでにデビューしていたこともあって、プロレスの動きをさせるとうまかった」と振り返る。 【貴重写真】オカダ・カズチカの海外遠征時代…棚橋弘至&獣神サンダー・ライガーとの3ショットも もしオカダが“特待生”として新日本でのプロレス生活をスタートさせていたのなら、ファンの支持を得てなかっただろう。それが昭和時代からの新日本ファンの特別な思いである。 そして2010年2月に海外修行に旅立った。しかし現地から活躍の情報が届くことはなかった(橋爪哲也)。
新日本プロレスのファン気質の特徴を一言で表すなら、“生え抜き至上主義”といえる。これは創始者であるアントニオ猪木のプロレス人生に起因するもの。新弟子として入門して道場で鍛え上げられ、トップにのし上がってきた選手をよしとする傾向だ。むしろ、そうでないと認めないといった風潮すらある。 実際にミュンヘン五輪出場の実績を引っ提げて入門してきた長州力がメインイベンターの地位を築くには相当の年数を要したし、幻のモスクワ五輪代表となった谷津嘉章も決してエリート街道を歩んできたわけではない。越中詩郎に至っては全日本プロレスから移籍してきた当初、「あいつ誰?」「新日本の闘いについていけるのか?」と見られていた。元横綱だった北尾光司は、デビュー戦だけで“失格”の烙印を押されたほど。エリートや移籍組に対しての嫌悪感は相当なものだった。 その点、オカダ・カズチカは特待生の扱いを受けず、闘龍門時代のキャリアを白紙にしてヤングライオンから再出発したことで、新日本ファンに受け入れられた。また、オカダ自身も新日本のスタイルに溶け込むよう努力した。そのため、ほかのヤングライオンと横一線で、当時は特にエース候補とは見られていなかった。期待を物語っていたのは、2010年1月31日、棚橋弘至相手に壮行試合をおこなって、TNAに無期限武者修行に旅立ったことぐらいだった。 しかしTNAでは若手としての扱いしかしてもらえず。新日本から送り込まれたから置いてやってるという感じ。アメリカでの厳しい生存競争に放り込まれたものの、オカダ自身、まだそれに打ち勝つだけの技量を身につけておらず、試行錯誤するばかり。結果的に活躍の場を与えられることもなかった。