第1次大戦で天国から地獄 「アラビア太郎」の山っ気あふれる青年時代 山下太郎(上)
山っ気たっぷりな2人の青年ブローカー
そのころ山下の周辺には山っ気たっぷりの青年ブローカーが2人いた。1人は政財界で活躍した「永野六兄弟」の長兄に当たる永野護(まもる)、もう1人は「実業界の父」渋沢栄一の息子、渋沢正雄であった。3人は不思議にウマが合った。山下に「ブリキがもうかるゾ」と勧められると、渋沢も永野もすぐ飛び乗る。 「渋沢は父栄一の七光りを利用して、渋沢の会社のブリキを売ったところたちまちのうちに20万円の利益を得た今日(編注:昭和40年代)の金にすれば1億に近い額である。もうけた金を資本にして、思惑をやるとさらに2倍になり3倍になって、返ってくる。さあおもしろくてしようがない。金というものが、こんなに簡単にもうかるのに、もうけようとしない世間の貧乏人が馬鹿にみえる」。(杉森久英著「アラビア太郎」) 昭和40年代の1億円は、現代では軽く10億円を超すだろう。
第1次大戦後の市場暴落で裸一貫に逆戻り
ところが、大正8(1919)年6月、第1次大戦を終結させたベルサイユ条約が成立、翌9年3月には景気の反動に見舞われて市場はパニックとなる。1トン当たり1075円で契約したブリがただの80円に暴落したから血気盛んな若者たちもひとたまりもない。 「渋沢正雄は父栄一から勘当同様となり、永野護は渡辺商事を追われて満鉄(南満州鉄道)に就職することになり、山下は麹町の宏壮な邸宅を売り払って、借家住まいに零落、『しばらくはニワトリでも飼って暮らすか』と永野に語ったという」(三鬼陽之助著「海外で勝負した男・山下太郎」) ブローカー業で数々の大山を当てた山下は麹町六番町に立派な邸宅を建て、自家用車を乗り回す日々だったが、元の裸一貫に逆戻りである。前出の「アラビア太郎」は山下の心情をこう描いている。 「山下太郎のように見栄坊で、派手好きで外面を飾りたがる男にとって、せっかく仲間入りした上層階級からはみ出して、もとの小商人に帰るのは死ぬよりつらいことである」 直木賞作家、杉森久英流の辛口描写だが、30歳前後の“成り上がり太郎”の神髄をついているように思われる。=敬称略 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> ■山下太郎(1889-1969)の横顔 明治22(1889)年、東京に生まれるが、すぐ父のふるさと秋田県大森町に移る。太郎の父正治は「天下の糸平」こと大相場師、田中平八のもとで小僧となり、博才に恵まれていた。その血は太郎にも受け継がれた。 慶応義塾から札幌農学校に進む。明治42年に卒業すると、東京でブローカー業務を始める。大正3(1914)年、山元オブラート会社を設立。大正5年には東京・深川で山下商会を開業、穀物、鉄鋼の貿易で財を成す。第1次大戦景気の反動で“成り金”から元の“歩”に逆戻りする。満州に渡り、再び商才を発揮、満州成り金と称せられるが、敗戦で無に帰した。昭和33(1958)年、アラビア石油会社を設立、同35年、1回目のボーリングで大規模海底油田を発見。これがカジフ油田である。世界第1級の大噴油によって「アラビア太郎、1000万ドルの笑顔」と世界中で報道された。以後、石油メジャーの頼らない「日の丸石油」の発見と採掘・輸出を進めた。