「伝説の歌姫」中森明菜 イベント大成功で“完全復活”への次なるステップは『紅白歌合戦』への生出演
伝説の歌姫・中森明菜が”完全復活”に向けて、新たな一歩を踏み出した。 「東京『COTTON CLUB』で7月12日~14日に、オフィシャルファンクラブの会員向けにイベントを開催。1公演7万1300円(税抜き)と高額にも関わらず、全5公演におよそ900人のファンが殺到しました」(ワイドショー関係者) 【写真】「イベントを終えて…」中森明菜がアンニュイな表情でホテルに戻った「プライベート姿」 このライブでは、往年のヒット曲をはじめ古いアルバムのメドレーなど、11曲の”ジャズバージョン”を披露。無事、完走を果たした。 「今年の7月13日に、59歳の誕生日を迎えた明菜さんは、ファンの前で歌うのは実に6年半ぶりでした。4月3日の『TATTO-JAZZ-』を皮切りに、毎週水曜日に往年のヒット曲のジャズバージョンを最新動画交えて、5週続けて公式ユーチューブに公開。7月15日には全世界に向けて配信するなど、”完全復活”に向けて、大きく前進したことは間違いありません」(同・ワイドショー関係者) 中森明菜は、’82年に『スローモーション』でデビュー。’84年の『サザン・ウインド』から’88年の『TATTOO』まで、16作連続シングルチャート初登場1位の金字塔を打ち立てた。ところがそんな彼女の運命に、絶体絶命の危機が訪れる。 「映画『愛・旅立ち』で共演した”マッチ”こと近藤真彦との交際が発覚。ところが’89年、マッチと松田聖子のニューヨーク密会報道がスクープされ、明菜は自殺未遂事件を起こしてしまう。 しかも大晦日に行われた二人の“金屏風会見”が単なる復帰会見に終わり、ファンを落胆させています。思えば明菜の転落は、この時から始まりました」(女性誌記者) さらに90年代に入るとレコード会社の移籍問題をはじめ、数々のトラブルに巻き込まれ、中森明菜は歌姫としての輝きを失う。その姿は、まるでバブル崩壊後の日本を見ているようで切なくもある。 そんな彼女に救いの手を差し伸べたのが、“育ての親”と言われた寺林晃氏である。 「寺林さんは、中森明菜がオーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ系)に登場した時から期待を寄せ、所属するワーナー・パイオニアと契約を結ぶと明菜の制作宣伝を統括。現場で陣頭指揮に当たりました。 やがて紆余曲折の末に‘02年、“引退の危機”に追い込まれていた明菜を自身が執行役員を務める『ユニバーサルミュージック』に誘い、救いの手を差し伸べています」(元レコード会社プロモーター) 寺林氏の元で、演歌やムード歌謡、フォークソングなど、様々なカバーアルバムをリリースして、歌い手としての力量を見せつけた明菜。しかし“歌姫としての輝きを取り戻したのか”と問われれば、”NO“と言わざるを得ない。 ‘10年に体調不良により、明菜は芸能活動の無期限休止を発表。’14年には、サプライズゲストとしてNHK『紅白歌合戦』に出場。オリジナル曲を披露するも、ニューヨークからの中継だったりと、“完全復活”を印象付けるまでには至らなかった。 しかし寺林氏は、決して諦めてはいなかった。 「明菜がデビュー40周年を迎える’22年に紅白に出演するため、寺林さんが水面下で動いていたようです。しかしその年の8月に寺林さんは病に倒れ、11月に亡くなったことで、その年の紅白へのサプライズ出演は幻と消えました」(前出・プロモーター) そんな中、ここに来て期待されるのが、今年の紅白への“生出演”だ。 「NHKサイドとしても生放送だけにリスクは否めません。しかし、そんなリスクを冒してまでも出て欲しいアーティストであることは間違いない。明菜サイドも、紅白出演が再始動には相応しい舞台だと考えているでしょう」(音楽番組ディレクター) ”完全復活”に相応しいとなれば、やはりジャズバージョンではく、80年代に披露した『ミ・アモーレ』『DESIRE』といった独自の世界観を持つ、絢爛豪華たるオリジナル曲を歌ってこそ、“明菜復活”と言えるのではないか。 “失われた30年”の時を超え、伝説の歌姫・中森明菜は蘇ることができるのか――。 取材・文:島右近(放送作家・映像プロデューサー)
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