「唐津くんち」の曳山になぜ義経や信玄、謙信の兜が採用されたのか 江戸時代のメディア浮世絵が影響?
「エンヤ!」「ヨイサ!」 11月2~4日、佐賀県唐津市内に力強いかけ声が響き渡った。国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産にも登録されている唐津神社の秋の例大祭「唐津くんち」だ。祭りの見どころは、市街地を巡行する豪華絢爛な曳山。現存する14台は、江戸時代後期から明治時代前期にかけて作られた。獅子や鯛をかたどったものに加え、源義経や戦国武将の武田信玄、上杉謙信らの兜を模した曳山も威厳を放つ。 だが、一度も唐津の地を踏むことのなかったであろう武将らがなぜ、曳山に選ばれたのか。不思議に思って取材すると、江戸時代に庶民の文化として広がった浮世絵や歌舞伎にたどり着いた。(共同通信=狗巻里英) ▽最初の兜は源義経 曳山の重さは2~4トンで、男衆や子どもらが大きな2本の綱で引く。 今年の唐津くんちのポスターを飾ったのは「源義経の兜」の曳山。黄金の輝きを放つ装飾に、赤や白、緑の羅紗のひもで編まれた華麗さが際立つ。唐津曳山取締会広報委員長の久保英俊さん(71)は「どこの町も自分の曳山が最高だと思っている。兜型の曳山は他にもあるが、中世の兜の組み方を残した精巧なもの」と胸を張る。
義経の兜の曳山は、唐津市内の呉服町が1844年に製作した。唐津神社によると、五穀豊穣を祝うみこしの警護役の武者を表すものとして兜の曳山が作られたと考えられているという。 唐津市内に住み、唐津くんちを長年研究する吉冨寛さん(66)は、呉服町内に具足屋があったのが兜の曳山を作るきっかけになったと指摘する。義経の兜が完成した後、「武田信玄の兜」や「上杉謙信の兜」「酒吞童子と源頼光の兜」と、兜をデザインした曳山が次々に誕生した。 吉冨さんは「それまで『兜』と呼ばれていた呉服町の曳山は、他の兜型と区別がつくように『源義経の兜』と名前を変えていった」との説を唱える。最初に義経が選ばれた理由には、歌舞伎で人気だったことも含めて諸説あると話してくれた。 ▽信玄の兜は長野・下諏訪町所蔵のものか 義経の兜から約20年後、木綿町が「武田信玄の兜」の曳山を製作した。りりしい鹿の角と白い毛の飾りが特徴的だ。信玄ゆかりの兜として最も有名で、諏訪湖博物館・赤彦記念館(長野県下諏訪町)に所蔵される「諏訪法性兜」をアレンジしたものとみられる。