「日本の桜」が世界で大人気――歌人西行の「桜好き」がワシントン、ハンブルグへ広がるまで
今年も桜の季節がやって来た。桜が好きなのは日本人だけではないようで、多くの外国人観光客も桜の名所へ足を運んでいる。 【写真を見る】日本人が知らない「世界から“100万人が見にくる桜”」 意外な場所にある3700本の桜
そもそも日本の「花見」という文化はいつ頃から始まったのだろうか――。西行歌集研究の第一人者・寺澤行忠さんの新刊『西行 歌と旅と人生』(新潮選書)は、桜の歌を多く詠んだ西行(1118-1190)が、花見文化に与えた影響について解説している。同書から一部を再編集してお届けしよう。 ***
西行が見ていた桜は、言うまでもなく、今日われわれが多く目にするソメイヨシノではなく山桜である。またその山桜には、多くの種類があり、花も多彩である。山中で目にする桜は、ひときわ鮮やかで、心惹かれるものであったに違いない。 「あくがるゝ心はさても山桜 散りなむ後や身に帰るべき」(花にあくがれ出た私の心は、それにしてもやまず、山桜が散ったのち、再びわが身に帰ってくるのだろうか) 「さても山桜」は、「さても止まず」を「山桜」に掛けた表現である。桜の花の咲く季節になると、花に心が惹かれてそわそわし出し、花が咲けば、心が身から抜け出て、帰らなくなることを心配する。この時代、肉体と精神は別のものだと信じられていた。 「あくがる」というのは、西行の愛用語で、心が身体から離れることをいうが、桜に心が奪われて、心が身体から飛び出してしまう、そしてそれが身体に戻らなくなることを案じているのである。 花に「あくがるゝ」心はまた、西行を漂泊の旅に駆り立てた力とも、繋がるものであった。 「吉野山こぞの枝折りの道かへて まだ見ぬかたの花をたづねむ」(吉野山の昨年つけておいた道しるべの枝折りの道を変えて、まだ見ていない方の桜を尋ねることにしよう) 「枝折(しを)り」は、山中に深く分け入ると、帰りの道が分からなくなるから、帰途の目印として、枝を折って道しるべにしたものである。「御裳濯河歌合(みもすそがわうたあわせ)」に自撰し、『新古今和歌集』に採録されている歌である。ここでは、花にあこがれる心、美を憧憬する心が、西行を新しい旅に駆り立てるのである。 「春風の花を散らすと見る夢は さめても胸の騒ぐなりけり」(春風が花を散らすと見た夢は、覚めても胸が騒ぐことだ) 人々が集まって、「夢中落花」という題で歌を詠みあった時に、西行が詠んだ歌である。題詠というと、現代人は作りもののように受け取りがちであるが、決してそうではなく、一つの歌題を表現の契機として、生活の中にある真実を呼び起し、それを歌に詠むのである。この歌は自他の秀歌選集の類にはみえないが、夢と現実の間を行き来する西行の浪漫的資質を非常によく表わしている。