「20代後半なのに福井で父と同居」では人生詰んでしまう…紫式部が年上の貴族からの求婚を受け入れたワケ
■突然終わった幸福な結婚生活 こうした紫式部の「強さ」には宣孝も降参し、結婚生活は進んでいった。おそらく長保元年(999)には、2人の間の唯一の子である賢子が産まれ、紫式部は父が留守で夫が時折、通いくるだけの屋敷で、一人娘を育てることになった。 その後、紫式部は七夕に、次のような歌も宣孝に送っている。 「天の川逢ふ瀬を雲のよそに見て絶えぬちぎりし世々にあせずは(天の川の逢瀬は雲の彼方のよそごとだと思って、それより私たちは、今夜は会えなくても、切れることがない仲がずっと変わらなければよいと思います)」 なんだかんだいって、夫婦仲はよかったようである。ところが、長保3年(1001)4月25日、宣孝は病死する。九州発の疫病が流行していた折から、感染した疑いもある。紫式部は結婚からわずか2年半で、寡婦になってしまうのである。 ---------- 香原 斗志(かはら・とし) 歴史評論家、音楽評論家 神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。 ----------
歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志