「ホビーパソコン」とは何だったのか? その歴史をその言葉の始まりから調べてみた
「セガが好きすぎるセガ社員」こと奥成洋輔氏の著書として7月に出版された、『セガハード戦記』が話題となっている。 【この記事に関連するほかの画像を見る】 同書には、セガの家庭用ビデオゲーム機のハードウェアや有力タイトルの説明にとどまらず、出荷数などの社内資料、開発や海外部署にまつわる逸話もふんだんに盛り込まれている。さらに任天堂、NEC、ソニーといった他社の動向やヒット作にも多数言及され、それらに触れたゲームプレイヤーたち、そしてもちろんセガファンの心情も生き生きと描かれている。 加えて奥成氏自身の“ゲーム小僧”からセガ社員に至る道のりまでも率直で平易に語られており、その充実した内容に似合わず、すらすらと読めてしまう稀有な本と言えるだろう。 さてこの『セガハード戦記』にもあるように、セガの家庭用ゲーム機の歴史は40年前の1983年7月、ファミコンと同月同日に発売された「SG-1000」にさかのぼるのはよく知られている。 ただ、もともと開発していたのは“ホビーパソコン”の「SC-3000」で、同じソフトが使えるSG-1000を急遽追加したという経緯は、この本で初めて知った方もおられるかもしれない。 なぜセガがホビーパソコンを発売しようとしたのか、そしてこのころの子どもたちにとってホビーパソコンがどのような存在だったか、同書にはこれらもわかりやすく述べられている。 ところでこの「ホビーパソコン」という言葉については、『セガハード戦記』を読み進めていくと、ある食い違いが確認できる。 まず、序章の「セガハード前史」の中では以下のように説明されている。 さて、電子ゲームや家庭用ゲーム機と並行して、パーソナルコンピューター(当時はマイクロコンピューター=マイコンと呼んでいた)が徐々に家庭へ普及してきたのもこの頃だった。(中略)1981年末以降になると、何万円もするPC用のモニターを追加購入せずとも、家庭のテレビに繋いで使えるようになり、ようやく一部の家庭では見かけるようになってきた。現在は「ホビーパソコン」と呼称されている、低価格のパソコンたちである。 一方そのあと、「メガドライブ」がテーマの第4章には、以下の記述がある。 値段といえばメガドライブは、前年の1987年にシャープから発売されたホビーパソコン「X68000」ともよく比較された。X68000は(中略)モニターとセットとはいえ40万円近くと、当時のPCの中ではダントツに高額だった。 このように、序章では“低価格のパソコンたち”を、第4章では“ダントツに高額”なものを「ホビーパソコン」と呼んでいるのだ。 誤解のないよう付け加えるが、筆者はこれをあげつらう意図で取り上げたのではない。 奥成氏より少し年下の筆者の実感としても、これらは当時どちらも確かに「ホビーパソコン」だったのだ。 つまり「ホビーパソコン」の意味するところは、文脈によって違いがあるのが実態だったということになる。 ごく大まかに整理すると、「使い勝手が家庭用ゲーム機に近い低価格のパソコン」と「それより高級な機種を含み、ビジネス向けを除くパソコン」のふたつの意味があったと説明できる。 このふたつの意味の違いはどうして生じたのか? それにそもそも「ホビーパソコン」という呼び方は、いつごろから使われるようになったのだろうか? 今回はこれらの疑問を手掛かりに、『セガハード戦記』の補助線の意味合いも込めて、昭和末期から平成初期を彩った「ホビーパソコン」の歴史のあらましを振り返ってみたい。 文/タイニーP ■「ホビーとの訣別」 さて、「ホビーパソコン」という呼び方が広まるには、その前提として「パソコン」という略称が使われている必要がある。 先に『セガハード戦記』から引用した文章にもあるように、1970年代後半から1980年代序盤にかけては、パソコンの代わりに「マイコン」と呼ばれるケースが非常に多かった。 まず最初に、この「マイコン」から「パソコン」へ呼び名が変化した過程を追ってみよう。 1970年代に急速に発達していたマイクロプロセッサー(現在で言うCPU)は、それ単体でも「マイクロコンピューター」や「マイコン」と呼ばれていた。 これに入出力装置などを組み合わせたごく小規模のコンピューターもまた、個人所有のコンピューターの意味での「マイコンピューター」をかけて「マイコン」と言われたのだ【※】。 当時のマイコンは、マイクロプロセッサーなどの部品やキットを、自分でハンダ付けして組み立てるところから始めるのが当たり前。 ソフトウェア(プログラム)も市販されることはまれで、多くは解説書などのお手本を手作業で入力したり、あるいはそれを改造したりと、研究やホビーの色が濃いものだった。 しばしば日本初のマイコン雑誌(パソコン雑誌)と言われる『I/O』も、1976年11月の創刊号から10年以上にわたり、表紙には「ホビー・エレクトロニクスの情報誌」を掲げている。 しかしこのころ北米ではすでに、スモールビジネスなど、所有者個人の日々の活動に役立てる道具としてこれらマイコンを利用しようという機運が生まれていた。 1977年春に開催された「西海岸コンピューターフェア」では、簡単に使い始められる完成品としてアップルの「AppleⅡ」やコモドールの「PET2001」が展示され、話題となっている。 日本ではその直後、1977年7月に「マイクロコンピュータ総合誌」を掲げてアスキー出版から『アスキー』が創刊された。 その巻頭に掲載されたのが、「ホビーとの訣別」と題した文章だ。 (略)創刊号が皆様のお手もとに届く頃、米国では全米コンピュータ会議(National Computer Conference)が開かれた直後で、そこでマイクロコンピュータを個人的な目的に使用する、いわゆるパーソナル・コンピューティングが一般に学会レベルで認められるようになるようです。 ここにホビーではない新しい分野、「コンピュータの個人使用:パーソナル・コンピューティング」が出現したと言うことができます。 (中略) 家庭や日常生活の中に入ったコンピュータは、テレビやビデオ、ラジオのような、いわゆるメディアと呼ばれる、コミニュケーション(注:原文ママ)の一手段になるのではないでしょうか。テレビは一方的に画と音を送り付けます。ラジオは声を音を、コンピュータはそれを決して一方的に処理はしません。誇張して言うなら、対話のできるメディアなのです。個人個人が自分の主体性を持ってかかわり合うことができるもの──これが次の世代の人々が最も求める解答であると思うのです。(後略) この「ホビーとの訣別」の筆を執ったのは、『アスキー』創刊時の編集人兼発行人だった西和彦氏とされている。 彼は『I/O』創刊の中心人物でもあったのだが、西海岸コンピューターフェアへの参加後に親しい執筆者を誘って編集部を抜け、新たにアスキー出版を設立したのだ。 その行動も、「ホビーとの訣別」という表題も、「マイコンがホビーと結びつきすぎることは、発展の枷になりかねない」という懸念の反映だったと言える。 西氏はその後、ビル・ゲイツ氏と直談判して米マイクロソフトの極東代理店の権利を獲得し、同社のBASIC【※】が、1979年発売のNEC「PC-8001」(168,000円)に搭載されるうえでの立役者となった。 PC-8001は、大型コンピューターの端末としても利用できるよう、標準的な端末と同じ1行あたり80文字の表示が可能で、カラー表示にも対応。 記憶装置のフロッピーディスクドライブ(FDD)や複写紙に対応したドットインパクトプリンターといった周辺機器を早くから広告に載せ、実用性を強くアピールしたのが特色だった。 しかしそれでもなお、「マイコン」という言葉にはホビーの印象が色濃く残り続けた。 これに関しては、1979年前半の社会現象となった「インベーダーブーム」の影響も無視できない。 当時はインベーダーゲームの模倣作がマイコン向けに続々と現れ、雑誌上でそのプログラムリストが発表されたり、それを収めたカセットテープが販売されたりしていた。 業界の展示会「マイクロコンピュータショウ'79」でも、各社が人寄せとしてこのようなゲームを動かしていたほどだ。 これらによって、“インベーダーのように複雑なビデオゲームを家で好きなだけ遊べる機械”という、マイコンの一面的なイメージが世間に広まったわけだ。 ■ビジネスから浸透した「パソコン」 そのイメージに変化が生じた要因のひとつとして、漢字表示に対応する機種が登場しはじめたことが挙げられる。 漢字を含めた情報処理は、大型コンピューターを中心に1970年代に急速に実用化が進んだものの、英数字とカタカナのみというシステムもまだ少なくなかった。 当時、広く使われる漢字として認識されていた「当用漢字」だけでも2,000字ほどあり、その字形などを保持・利用するために上乗せされるコストが軽視できなかったためだ。 そんな中、半導体メモリーの高密度化が進み、1980年代序盤には約3,000字の漢字やひらがななどの字形を十数個、あるいはそれ以下の半導体ROMに収められるようになる。 マイコン本体にこれらの漢字ROMを追加したうえで、ディスプレイ、FDD、プリンターといった周辺機器を揃えても100万円程度というシステムが現実化してきた。 つまりマイコンが、当時流行していた「オフィスオートメーション(OA)【※】」の重要アイテム、オフコン(オフィスコンピューター)に取って代わっても不思議ではなくなったのだ。 日本のマイコン市場で先行した日立やシャープは、このような漢字利用への発展も想定した新機種を投入して、クラス別の製品戦略をとるようになった。 NECも、PC-8001のソフトや周辺機器が利用できる互換性を持つ上位機種「PC-8801」(228,000円)を1981年秋に発表した。 またPC-8801よりも一足早く発売が始まった富士通の「FM-8」(218,000円)が、当初から漢字への対応をアピールするなど、OA向けを主目的にこの市場に参入するメーカーも相次いでいる。 しかもちょうどこの時期、1981年初頭から日経新聞が「パソコン」の略語を紙面で使いだした【※】。 有力紙の紙面にひっきりなしに「パソコン」の4文字が使われたことで、この表現が「マイコン」とは一味違うものという印象を伴いながら広まっていったと考えられる。 同じ1981年には、題名に「ビジネス・パソコン」と入った書籍が複数出版されており、この方面では「パソコン」がかなり早く浸透したことがうかがえる。 ■「ホームコンピューター」への期待 クラス別のパソコンを投入する動きからは、ビジネスとは反対の方向、つまり家庭向けで低価格のクラスも発生している。 日本でのさきがけは、1980年秋に69,800円でコモドールが発売した「VIC-1001」だろう。 またNECは1981年秋、PC-8801と同時にこのクラスの「PC-6001」(89,800円)を発表して、PC-8001も含めた3機種を並行して展開する戦略をとった。 1981年末には、日立やナショナル(松下)からも入門者向けをうたう10万円未満の機種が登場している。 中でもVIC-1001やPC-6001はサウンド機能が充実していたほか、家庭用ゲーム機と同様に、本体と付属品のみでテレビに接続して使えるようになっており、このクラスのお手本となった。 そもそも1970年代には、「将来はホームコンピューターが“一家に一台”置かれるようになる」という言説があった。 このホームコンピューターを核にして、エアコンの設定や風呂の給湯などを自動的に管理する「ホームオートメーション(HA)」や電子メール、在宅勤務が実現すると考えられていた。 これは当時のコンピューターの標準的な利用形態だった、ホストコンピューターと端末の関係を家庭内に置き換えたものだ。 しかし1970年代末から1980年代の家電製品は、この予想とは少し違う形で発展していく。 個々の製品自体に、組み込み用のマイクロプロセッサー(マイクロコントローラー、組み込み用マイコンとも呼ばれる)が入ることになったからだ。ただこれだけでは統合的なHAまでは実現せず、遠い目標として残されたままだった。 また「ニューメディア【※】」がブームになっていたこともあって、1980年代前半の電機メーカーにとってはやはり、ホームコンピューターは有望な市場に見えていた。 つまり日本のパソコン市場がクラス別に分かれていく中で、家庭向けパソコンには、このホームコンピューターへの布石という、電機メーカーにとって重要な意義があった。 そこに1983年、アスキーとマイクロソフトが主導する共通仕様「MSX」が提唱されたのは、まさに渡りに船であり、それが賛同メーカーを多数集めた理由と考えられる。 そしてアスキーだけでなく、これら電機メーカーが自社のパソコン製品を「ホビーパソコン」だと言明することも、この時点ではめったになかったと言っていい。 もちろん、パソコンに親しんでもらう入り口としてのホビーを一切否定していたわけではなく、「ホビーから実用まで」などという言い回しはよく見かけるものだった。 とはいえ、ホームコンピューターへの発展を前提にするなら、趣味の範囲だけで完結するような印象を持たれることに利点はなかったわけだ。 ■玩具市場にも進出した低価格パソコン これと対照的にホビーを前面に押し出すケースが見られたのが、MSXよりも一足早く登場した、玩具メーカーのパソコンだ。 たとえば1982年9月にトミーが発売した「ぴゅう太」(59,800円)は、ある広告の冒頭で「ご家庭のテレビに「ぴゅう太」を接続すれば、そこは、コンピュータホビーの世界。」と述べている。 肩書こそ「16ビットグラフィックコンピュータ」とややいかめしかったが、ゲームソフトやお絵描き機能をアピールし、知育玩具に近い売り込み方を模索していた。 トミーにやや遅れて同年11月に発売されたタカラの製品は、さらにストレートに商品名を「ゲームパソコン」(59,800円)とした。 ハードウェアは、1970年代からベンチャーでパソコンを手掛けていたソードが初めて家庭向けを志向した「M5」(49,800円)と同じで、セット内容や販路を変えてほぼ同時に発売する戦略をとったものだった。 そのため、プリンターポートを標準で備えるなど、拡張性や実用性ではぴゅう太を上回る面もあったが、タカラはあくまでゲームを強調したわけだ。 タカラは、このころの玩具業界を席巻していた電子ゲームブームには完全に出遅れており、それを挽回したいという意図もあったのだろう。 また日本の玩具市場には、コモドールも1982年に本格的に進出。 有力百貨店や大手玩具店のキデイランドなどでVIC-1001を販売していたが、タカラの製品とほぼ同時期に、玩具市場向けに「マックスマシーン」(34,800円)を発売している。 シンセサイザーやコンピューターなどの用途を掲げた中でも、チラシに「MAXの第一の顔、それがゲームマシーンだ」とあるなど、やはりまずはゲームを中心に売り込まれた。 これらの、ROMカートリッジでのソフト供給を前提にした玩具市場向けのパソコンが、「ホビーパソコン」と呼ばれるようになったのは当然の成り行きだろう。日経新聞のデータベースで確認すると、「ホビーパソコン」という表現が最初に見つかるのは日経産業新聞1983年4月28日付。 セガが3万円前後の「ホビーパソコン」を7月にも発売するという記事で、おわかりのとおり29,800円での発売となったSC-3000のことだ。 またこれと同じ4月に、矢野経済研究所が『ホームビデオゲーム・ホビーパソコン市場の需要分析と今後の展開』と題する市場調査資料を出版している。 この資料における「ホビーパソコン」の定義は明確には示されていないが、調査の内容からは、玩具市場向けのほかに10万円未満の家庭向けパソコンも一応含んでいるように読み取れる。 ■パソコン専門店にとっての「ホビーパソコン」 ではファミコン登場前後には、「ホビーパソコン」のイメージが、このような玩具市場向けを含む10万円未満の家庭向けで固まっていたかと言えば、必ずしもそうではない。 それを示すものとして挙げられるのが、パソコン大型専門店の草分けとして知られた上新電機の「J&P」の広告だ。 J&Pの1号店は大阪・日本橋に1981年10月に開店したが、当初1階で取り扱っていた電子部品などを他店舗に移転して、1982年夏には1階のフロア名称を「ホビーのパソコン」としていた。 そして1982年10月には1号店を「J&Pテクノランド」に改名し、同じ日本橋に「J&Pメディアランド」を開店。 このJ&Pメディアランドの2階も「ホビーのパソコンフロア」とされ、年末発売のパソコン雑誌には、この階の取扱品目に「ホビーパソコン」を掲げた広告が掲載されている。 ところがこの広告の「ホビーパソコン」は、玩具メーカーのパソコンのことではなかった。 というのも、J&Pメディアランドの1階は「電子ホビーのフロア」で、その取扱品目に電子ゲームやキーボード楽器などと並んで「ゲームパソコン」が挙げられていたからだ。 これはタカラの商品名のことではなく、玩具メーカーの、また玩具市場向けのパソコン全体を指していたと考えられる。 このような形で「ゲームパソコン」と「ホビーパソコン」を分けたのは、双方が排他的だという趣旨ではなく、売場構成上の都合だろう。 小売店で販売されるパソコンのうち、明らかにビジネスが主目的のものを除いた広い範囲が「ホビーパソコン」で、そのうち玩具市場がらみのものを「ゲームパソコン」としたわけだ。 どうしてJ&Pの広告の「ホビーパソコン」が、広い範囲を指すことになったのか。 考えられる理由としてはまず、販売店の実感としてはやはり、ゲームソフトの需要が低価格機種に限らず根強かったからだろう。 1982年ごろといえば、アドベンチャーゲームがパソコンゲームの新しい潮流として、日本でにわかに注目を集め始めた時期だ。 アドベンチャーゲームはもともと、場面の状況が文章で示され、プレイヤーが行動を1~2語程度で入力するとまた文章で応答が返ってくるという、文字での対話がベースのゲームだった。 しかし1980年に発売されたAppleⅡ用の『Mystery House』を皮切りに、北米ではグラフィック付きのアドベンチャーゲームが続々とヒットを飛ばしていた。 日本でもこれらが輸入されて遊ばれる中で、1982年には独自に作られたアドベンチャーゲームが市販され始めている。 こうして日本の場合、輸入ものを除けば、グラフィック付きとそうでないアドベンチャーゲームが、ほとんど同時に市場に登場する形になった。 そのため視覚的なインパクトの強いグラフィック付きのアドベンチャーゲームがたちまち優位に立ち、ゲーム目的であっても高精細なグラフィック機能が重視されていく。 さらに日本では、パソコンで漫画やアニメのキャラクターを描くことが、販売店の店頭や学園祭のパソコンクラブなどの展示のアイキャッチャーとして盛んに行われていた。 当然、高精細で色の制約が少ないことが重要なため、グラフや漢字の表示のためのグラフィック機能を持つビジネス向けの機種こそが、この手の利用目的に合っていることになる。 中でもFM-8やPC-8801は、「640×200画素、1画素ごとに8色から選択【※】」のグラフィック機能を持つ機種としては割安な価格設定で、マニアからの人気も高かった。 しかも1982年末商戦に向けては、富士通がFM-8のグラフィック機能など大半を受け継ぎサウンド機能も加えながら、価格を126,000円に抑えた戦略機種「FM-7」を投入。 またシャープは「パソコンテレビ」と銘打ち、テレビとの融合を目指した映像機能にサウンド機能も備えた「X1」(155,000円、テレビ機能付きディスプレイは113,000円)を発売している。 このように1982年には、ゲームも含め従来よりも高度なパソコンホビーの分野が形成されつつあり、加えて明らかにそこにターゲットを据えた機種までもが登場するに至った。 その状況を踏まえれば、大型専門店として顧客の動向に敏感なJ&Pが、高級ホビーに向いた機種まで含めた広い範囲を「ホビーパソコン」と呼んだこともうなずける。 この後、日本のパソコンで隆盛するシミュレーションゲームやRPGも、これら高級ホビー機に位置づけられた機種を中心に発展していくことになる。 つまり「ホビーパソコン」という呼び方は、ホビーの印象を引きずっていた「マイコン」から、指向性のある製品が要求され始めた「パソコン」への脱皮の中で生まれたと言える。 そして、ビジネス向けの機能であろうとホビーに利用するマニアたちの貪欲さが、ホビーパソコンの範囲を低価格機種にとどめず、より高級な機種にまで押し広げたわけだ。 ■8ビット機はみな「ホビーパソコン」へ さてでは、玩具メーカー製と玩具市場向けのパソコンはどうなっていったのだろうか。 1983年にはSC-3000に加え、バンダイの「RX-78」(59,800円)【※】やカシオの「PV-2000」(29,800円)が登場している。 タカラがゲームパソコンのセット内容を変更して「ゲームパソコンM5」と改称(49,800円)したほか、翌年にはトミーが29,800円に価格を切り下げた「ぴゅう太mkⅡ」を投入するといったテコ入れも見られた。 しかしこれらは、ファミコンを筆頭にした家庭用ゲーム機市場の拡大の中で、急速に競争力を失っていった。 加えて電機各社のMSXパソコンが5万円前後からの価格で1983年末以降多数登場し、1984年になるとタカラやバンダイはこのMSX用ソフトの発売にも踏み切った。 またカシオは1984年末、価格をPV-2000と同じ29,800円とした「PV-7」でMSX本体の市場に参入している。 こうして日本の玩具市場向けパソコンは、家庭用ゲーム機のSG-1000との間でソフトの互換性を持たせていたセガを除いて、1985年前半までにほぼ壊滅した。 代わりにMSXが、主にROMカートリッジでソフトを供給する“使い勝手が家庭用ゲーム機に近いパソコン”でもっとも目立つ位置に立つことになる。 その結果MSXは、アスキーや電機メーカーの思惑をよそに、主に玩具市場向けを指して言われていた意味での「ホビーパソコン」のイメージまでも受け継ぐことになったわけだ。 この1985年には、高級ホビー分野のパソコンにも大きな変化が起きている。 その象徴として挙げられるのは、1985年初頭に発表されたNECの「PC-8801mkⅡSR」(FDD2台内蔵モデルは258,000円)が、発売済みのPC-6001などの新機種と同様、ヤマハの「FM音源【※】」を新たに採用したことだ。 ビジネス向けとして始まったPC-8801はサウンド機能が弱く、これを家庭向けの機種と同等にしたのは、位置づけを家庭向けの高級機に変更したことのあらわれだった。 ビジネス市場では、1982年秋発表の「PC-9801」とその後継機が、約2年のうちに国内の16ビットパソコンのトップに立っており、そこでのPC-8801の役目は終わったと判断したわけだ。 これに敏感に反応したのが、3.5インチFDD採用の「FM-77(セブンセブン)」を8ビット機の主力としていた富士通だ。 漢字表示能力をPC-8801と同等レベルに強化した「FM-77L4」を春商戦向けに投入していたが、5月には実質的にFM-77の価格引き下げモデルにあたる「FM-77L2」を発売。 このFM-77L2にはNECと同じFM音源を追加したほか、ジョイスティックも添付されており、広告で「3.5インチ時代のホビーパソコン」をうたったのだ。 FM-77L2のカタログ価格は193,000円で、かつての玩具市場向けのパソコンとは明らかに別クラスの製品だった。 つまり1985年時点でも、「ホビーパソコン」には「使い勝手が家庭用ゲーム機に近いパソコン」と「それより高級な機種を含み、ビジネス向けを除くパソコン」のふたつの意味があった。 しかしビジネス向けが16ビット機にほぼ移行している以上、教育向けなどの例外はあるにせよ、「8ビットパソコン=ホビーパソコン」と大雑把にくくっても支障がなくなっていた。しかもこの1985年には、アスキーがMSXとの互換性を持つ上位仕様「MSX2」を発表している。 MSX2は映像機能が高級ホビー分野の機種に匹敵するレベルまで強化され、年末にかけて電機メーカーが発売したMSX2の中には、FDDを2台搭載して20万円前後の機種もあった。 こうして、8ビットパソコンというくくりの中では、「ホビーパソコン」に内包されたふたつの意味の違いが次第に曖昧になっていった。 ■「ホビーとの訣別」の10年後 ところで、各社の主力機種でモデルチェンジのたびにコストパフォーマンスの向上が行われる中、次第に16ビット機も高級ホビー分野に取り込まれようとしていた。 実際1980年代後半に入ると、日本のパソコンゲーム市場では16ビット機向けが急速に成長し始めている。 業界団体の調べでは、1985年のパソコンゲーム出荷額における16ビット機向けの割合は4%にも満たなかったのが、翌年には12%を超えるまでに増加した。 一方で高級8ビット機の家庭での実用用途の典型だった、ワープロソフトによる文書作成は、小型化・低価格化が進むワープロ専用機に次第に取って代わられつつあった。 このような状況の中、NEC、富士通、シャープの3社にとっては、高級ホビー分野をどうやって16ビット以上に移行するかが課題になってゆく。 当時広く利用されていた16ビットCPUは、3社が各々8ビット機に採用していたCPUとの直接的な互換性がなく、それらのソフト資産の継承は容易ではない。 映像やサウンドの機能も含め、あえて従来の8ビット機との互換をとるのかどうかの問題があった。 この課題に対して、富士通はひとまず8ビット機の展開を継続し、対照的にNECとシャープは、従来の8ビット機の後継と新しい16ビット機を並行して展開する道を選んだ。 NECが1987年春に投入したのが、CPUに8ビット相当での動作と16ビットでの動作の2つのモードを搭載し、PC-8801との互換を保ちつつ16ビット化を図った「PC-88VA」(298,000円)だ。 処理速度こそPC-9801の主力機には及ばなかったものの、それらを下回るカタログ価格ながら、グラフィック能力では大きく上をゆくレベルに強化されていた。 また1987年春にはシャープも、「X68000」を369,000円(テレビ機能付きディスプレイは129,800円)のカタログ価格で発売した。 NECとは異なり、この機種にはX1との互換性はなく、むしろ過去の機種との互換性にこだわらずに機能をいちから組み上げたのが特色だったと言える。 中でも、512×512画素で65,000色表示、半透明描画なども可能なグラフィックを含む映像機能は、当時同じクラスのパソコンに類例のない非常に凝ったものだった。 それを誇示するように、1985年夏にゲームセンターに登場したコナミの『グラディウス』を、見た目にほとんど遜色なく再現した移植版が付属し、羨望の的になった。 これらについて、『アスキー』1988年1月号掲載の編集部によるコラムは、以下のように述べている。 16ビットのホビーパソコンが登場したのも'87年の収穫だったろう。シャープのX68000と日電のPC-88VAは、8ビットマシンの思想を受け継いだ16ビットマシンとして注目された。 創刊時に「ホビーとの訣別」を掲げたアスキーで、10年後に高級ホビー志向の16ビットパソコンの登場が“収穫”と評されたという事実は、業界の激変ぶりを如実に物語る。 パソコン市場はすっかりビジネス向けを中心に回るものになり、ホビー向けは、少なくとも市場規模ではもはや傍流にすぎなくなったわけだ。 とはいえ、「ホビーとの訣別」でうたわれたパソコンのメディアへの発展はまだ道半ばで、これが広く実現していくのは1990年代以降のことになるのだが……。 ■「ホビーパソコン」のそれから その後のホビーパソコンについて、手短に触れておこう。 NECのPC-88VAは、PC-8801のソフト資産という後ろ盾があったにも関わらず成功していない。 主にゲームソフトなど、ハードウェアに対して特殊な操作を行っているものの一部で、PC-8801との互換性が不十分であることが判明したのが原因のひとつだ。 しかもPC-88VAの登場とほとんど同時に、エプソンがPC-9801互換機「PC-286」を発表して業界内外の話題を呼んでいる。 PC-9801の主力機種より低価格でほぼ同性能、あるいはそれ以上というコストパフォーマンスを売りとし、NECも実売価格を下げる施策に踏み切ってこれに対抗した。 このため1987年末にはPC-286の実売価格が20万円前後の店も出たほか、PC-9801旧機種の中古市場が大きく値下がりするなど、PC-88VAの価格競争力が削がれる結果になった。 PC-8801をすでに所有するユーザーにしてみれば、PC-88VAに乗り換えるよりも、PC-9801などほかの16ビット機を買い増す選択が有力になってしまったわけだ。 1989年には、CPUを2種類搭載し「98モード」と「88モード」を備えた「PC-98DO」(298,000円)が発売され、NECのパソコンにおける高級ホビー分野の受け皿は名実ともにPC-9801になる。 約100万台【※】を出荷したPC-8801ではあったが、1989年秋の新モデルを最後に展開を終了した。 これに対し、シャープのX68000は当初ソフトの少なさが懸念されたものの、マニアからの強い支持を得た。 発売2年目の1988年には、アーケードでの稼働から1年半ほどとまだ新しさの残る『源平討魔伝』と『ドラゴンスピリット』をほぼそのまま再現した移植が、相次いで登場している。 ゲームソフトだけでなく、レイトレーシングによるCG生成ソフト『C-TRACE』など、標準装備の高度な表現機能を活用するクリエイティブ系ツールも人気を呼んだ。 またこれらのツールやOSの使い勝手を改善し、あるいはそれらにない機能を実現するフリーソフトがユーザーの間で盛んに開発され、勃興期のパソコン通信などを介して広まっていった。 『セガハード戦記』にもあるように高価だったのは確かだが【※】、このころ日本でもっともホットなホビーパソコンだったと言える。 X68000はその後、1993年まで定期的に新モデルが投入された。 ただマニアックな熱気の高まりに対し、ユーザー層の裾野の広がりの点では課題があった。 メガドライブやNECの「PCエンジン」、任天堂の「スーパーファミコン」など、当時急速に進んでいた家庭用ゲーム機の高性能化の影響も少なくなかったと考えられる。 累計の台数では、35万台以上を出荷したX1と比べても半分程度にとどまったようだ【※】。 一方MSXは、1987年にはFDDを1台搭載して5万円台のMSX2が登場するなど、8ビットパソコンの中でも最低価格帯の位置を占め続けた。 もっとも、かつて言われていたようなホームコンピューター市場への発展の兆しが見えない中、国内展開を取りやめる電機メーカーも徐々に増えていく。 1988年発表の「MSX2+」に対応した機種を発売したのは、松下、三洋、ソニーの3社で、16ビットCPUを採用した1990年発表の「MSXturboR」は松下のみの発売となった。 国内の累計出荷は約200万台だった【※】。 そして、高級ホビー分野のパソコンの世代交代に最も思い切った手を打ったのが富士通だろう。 1989年、CD-ROMドライブを標準搭載した32ビットパソコン「FMタウンズ」(338,000円から、キーボードは別売で2万円)を発売。 同社のビジネスパソコン「FMR」と部分的な互換性を持たせつつ、映像・サウンド機能を大幅に強化し、「ハイパーメディアパソコン」をうたっている。 そのターゲットは、ゲームやビジネスはもちろんのこと、ショールームなどでの映像展示といった業務用途から教育分野にまで広がっていた。 しかし1990年代に入ると、アップルのMacintosh(Mac)のカラー対応機が大きく値下がりし、1991年末には動画再生を含むマルチメディア環境「QuickTime」がリリースされる。 マイクロソフトもWindowsにマルチメディア機能を追加したことから、“マルチメディアソフト”が業界内外の注目を集め、CD-ROMドライブを搭載するパソコンも次第に増えていった。 富士通もFMタウンズにWindowsを提供し、Windows用とタウンズ専用タイトルの両方が使えるソフトの多彩さを押し出したものの、この「マルチメディアブーム」の中で次第に埋没。 1995年、前年より展開されていた一般消費者向けのWindowsパソコン「FMV-デスクパワー」をベースにした「FMV-タウンズ」に吸収されている。 FMV-タウンズ発表時点でのFMタウンズの累計出荷は、FM-7・FM-77とほぼ同じ約50万台だった【※】。 なおこのほかに、1991年にはセガが日本IBMと共同開発した、メガドライブの機能を一体化したパソコン「テラドライブ」(148,000円から)が発売されている。 事実上の“世界標準”となっていたIBM PC系のパソコンの日本語対応を容易にするOS、「DOS/V」をいち早く採用して【※】家庭向けパソコン市場に持ち込む狙いがあった。 しかし、海外のIBM PC用ゲームに注目するマニアには性能が物足りず、一方でメガドライブ用に発表されたCD-ROMドライブ「メガCD」への対応可否が不透明という問題もあった。 結局テラドライブはメガCDに対応せず、メガドライブとIBM PCを一体化したメリットを活かすソフトもほとんど発売されないまま、5万台で販売を終える【※】ことになる。 ■「ホビーパソコン」は消えたのか? さて、1990年代末には販売店で売られるパソコンがWindowsとMacのふたつの勢力にほぼまとまり、どの機種でも「ホビーから実用まで」のひととおりがこなせるようになった。 企業向けや特殊な用途向けのパソコンはもちろんあるにしても、“一般消費者向けのパソコン”は、ビジネス向けも家庭向けも同じベースの上のバリエーションにすぎなくなったわけだ。 こうして「ホビーパソコン」という分野の製品は、過去の機種を残して消滅したと言える。 昨今では、過去のホビーパソコンを何らかの形で復刻した製品や、「Raspberry Pi」などのごく低価格なシングルボードコンピューターが登場するといった状況の変化もある。 とはいえ、かつて「ホビーパソコン」の指す範囲がかなり広い場合もあった以上、それらの限られた製品だけをいまのホビーパソコンだとするのも、筆者には違和感がある。 そもそも一部の例外を除けば、ものを個人所有する最大のメリットは、個人の都合がいい時に、好きな目的で使えることだ。 とりわけ筆記用具やハサミは仕事にも使えるし、趣味に使うこともできる。 そして仕事に使うものに遊び心を込めることもあるし、プロ向けのものを趣味に使う人もいるだろう。 パソコンも、そんな“ありふれた道具”に向かって進歩してきた以上、本当のところはホビーと完全に切り離すことは不可能だったのだ。 したがって、いまのホビーパソコンは、ゲームコントローラーと一体だとか、カラフルに光るといった見た目では決まらないし、価格で決まるわけでもない。ただどう使ったかだけの話というのが筆者の解釈だ。 「パソコン」という略称が広まるよりもずっと前から、ユーザーの自由で貪欲な発想はホビーを含むパソコンの可能性を広げてきた。 それが続く限り、これからもパソコンの中にある“ホビーパソコンの因子”が消えることはないはずだ。
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