代表引退バド桃田賢斗「今の自分がいい」賭博問題、事故、五輪…激動10年で得たもの/単独インタ
激動の10年を駆け抜けた今、何を思うのか-。 バドミントン男子シングルス元世界ランク1位の桃田賢斗(29=NTT東日本)がこのほど、日刊スポーツの単独インタビューに応じた。15年世界選手権で日本男子初の表彰台となる銅メダルをつかんだが、16年には違法賭博問題による出場停止処分を経験。18年から世界選手権で2連覇も、20年に交通事故で大けがを負い、21年東京オリンピック(五輪)は1次リーグで敗退した。 今夏のパリ五輪出場を逃し、5月の国・地域別対抗団体戦トマス杯をもって日本代表から引退。栄光も挫折も味わった男が、勝敗の先に見つけたものとは。【取材・構成=藤塚大輔】 ◇ ◇ ◇ その声はかすれていた。 「つぶれてもいいから、声を出そうと思って」 代表最終戦となったトマス杯から数日。桃田のざらついた声は、懸命に戦い抜いた証しだった。 14年の初代表入りから約10年。日の丸を背負う重みは、次第に増していった。 「『日本代表はこういう姿であるべき』という思いもあって、どこか気を張っていました」 自覚が芽生えたのは、違法賭博問題の発覚後。それ以前は、日本代表の意味を考えることすらなかった。 「本当に未熟な人間でした」 かつて男子シングルスは、なかなか脚光を浴びなかった。だからこそ「野球やサッカーに近づく競技にしたい」と奮い立った。そのためには勝つしかない。15年世界選手権で銅メダルを獲得すると、注目度も高まっていった。 その機運に水を差したのは自分自身だった。翌16年4月。賭博問題が発覚した。同年夏のリオ五輪の出場権を失っただけでなく、世間の期待も大きく裏切った。8年が経過した今も「自分の甘さが招いた結果」と苦い顔で振り返る。 当時はずっと、勝つことだけを優先していた。無期限の謹慎処分を受け、代表の肩書も外れた中、それまでの態度を見つめ直した。 「人として変わらないといけないと思いました。勝ち負けだけではなく、コート内での振る舞いだったり、試合に対する姿勢だったり。そういうところから1歩ずつ成長していきたいという気持ちになりました」 人の目を見てあいさつをする。ゴミが落ちていれば拾う。トイレのスリッパをそろえる。感謝の思いを言葉にする…。 17年から復帰し、29歳となった今まで、1度もおろそかにしなかった自負がある。交通事故に遭っても、東京五輪でメダルに届かなくても、これだけは続けてきた。「結果に関係なく、自分が気付いた時にはやるようにしています」。やり続けたからこそ、見えたものもある。 「直接的には勝ち負けにつながらないけど、どれも当たり前のこと。そして、当たり前のことを当たり前にするって、結構難しいんですよね」 過ちから再起を目指した桃田には、清廉なアスリート像を促された面もあっただろう。これからもそのまなざしは変わらないかもしれない。 ただ、そこに葛藤はない。澄んだ瞳で言い切る。 「感謝を伝えなきゃいけないという苦しさはなかったです。チャンスを与えてくれた方々に、本当に感謝しているので」 今後は国内を中心に現役を続けながら、子どもたちとの交流活動にも尽力する。さっそく今月9日には、大阪・ヤンマースタジアム長居で小学生約50人を対象としたイベントに参加する。「遊びは一切いらない。真剣勝負をしたいです」。真摯(しんし)に向き合う時間こそが、何よりのプレゼントだと思っている。 山あり谷ありの人生。全てを受け入れて、かけがえのない今を生きていく。 ほほ笑みながら、かすれ声で言った。 「人生をもう1回やり直すのは、しんどいだろうな。今の自分がいいです」 ◆桃田賢斗(ももた・けんと)1994年(平6)9月1日、香川県三豊市生まれ。小学2年から競技を始め、福島・富岡高3年の12年世界ジュニア選手権で日本人初V。15年世界選手権で銅メダルを獲得。16年に違法賭博問題により無期限の出場停止処分。17年から復帰し、18年世界選手権で日本男子初制覇。同9月に世界ランク1位。19年ワールドツアーで年間11勝。20年1月にマレーシアで交通事故に遭い、全身打撲や右眼窩(がんか)底骨折。21年東京五輪は1次リーグ敗退。パリ五輪選考レースは日本勢7番手の52位にとどまり、各国最大2枠の出場権を逃す。24年5月のトマス杯をもって日本代表を引退。名前の「賢斗」の由来は「スーパーマン」のクラーク・ケント。175センチ、71キロ。