「クソくだらない毎日に飽き飽きした」…多くの日本人が抱えている「退屈」はどこからやってきたのか
---------- 明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。 ※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。 ---------- 【画像】日本の哲学が役立つ「驚きの理由」
「自己」とは何か、「他者」とは誰か
哲学では「自己」あるいは「他者」も重要なテーマの一つだと言われたら、驚く人もいるかもしれない。自己とはまさに自己自身、自分自身のことであり、また他者とは目の前にいる家族や友人、あるいは見知らぬ第三者のことであり、とりたてて問題にする必要があるのだろうかという疑問をもたれる人もいるにちがいない。 しかし、私たちはほんとうに自分のことを知っているだろうか。「自己」は自分にとって自明であろうか。むしろ私たちは自己自身を見つめるのを避けて生きているのではないだろうか。あるいは、相手の表情の背後にある「他者」そのものを私たちは知っているだろうか。私たちはそもそも「他者そのもの」に迫りうるのであろうか。「他者」と言ったとき、それはすでにかなたに逃れ去ってしまっているのではないだろうか。そこに乗り越えられない壁が作りだされてしまっているのではないだろうか。 「自己」や「他者」の問題については、こうした困難な問いが待ち受けている。しかしそこには私たちを惹きつける何かがあるようにも思われる。それに以下で迫ってみたい。 「自己」というのは、自分にとって、何よりも身近なものである。しかし私たちは普段、「自己」を見つめるということをしない。実際、「自己とは何か」と問う人は少ないであろう。むしろ自己を直視することを避けている。十七世紀のフランスを代表する哲学者の一人であるパスカル(Blaise Pascal, 1623-1662)もその主著である『パンセ』のなかでそのことを指摘している。 『パンセ』は彼が人間とは何かを見つづけた思索の記録であると言えるであろうが( *1 ) 、そのなかでしばしば「気晴らし(気を紛らすこと)」(divertissement)ということばに出会う。 私たちはさんざん仕事や勉強に打ち込んだあとでも、まだ時間があれば遊びや賭事などをしたりする。場合によっては政治について口角泡を飛ばして議論したり、戦争にのめり込んでいったりする。そういったものをすべてひっくるめてパスカルは「気晴らし」ということばで呼んでいる。人間が「気晴らし」に身を投じるのは、独り何もしないでおれば、必然的に自己自身に向き合い、自己を直視しなければならないからである。それは非常に恐ろしいことだとパスカルは言う。具体的には、『パンセ』の断章一六八(ブランシュヴィック版)でパスカルは次のように述べている。「人間は、死と不幸と無知とを癒すことができなかったので、幸福になるために、それらのことについて考えないことにした」。自己に向きあえば、必然的に自己が死から逃れられない存在であること、そして自分が確かな信仰をもてないという悲惨、さらに無限なものを知ることのできない自分の限界を直視せざるをえないとパスカルは考えたのであろう。