「ルックバック」が描いた クリエーターの光と闇。「チェンソーマン」作者の衝撃作を映画化
クリエーターの業と性を突きつける
絵を描く、ものを作ることを志す人間が「自分だけではない」と知ること。自分が大好きな、これしかないと思う道にも上級者はいるもので、そこで「もっとうまくなりたい」「勝ちたい」と思えるか、努力できるかどうかでまず「続ける者」と「諦める者」が生まれてしまう。努力は才能をカバーしてくれるものではあるだろうが、才能をもって生まれた人間が努力しないとは限らない。 藤野がどれだけ努力しても、彼女が授業を受けている時間も全部「絵を描く」ことに費やす京本との差はなかなか縮まらない。さらに残酷なことに、外野は当事者の努力などはお構いなしに作品という結果だけを見て比較し、身勝手に祭り上げたり時には妬んだりする。周囲に「藤野より京本の方がうまい」と言われ、自身の審美眼も同意し、ならばと伸びしろに懸けるもやがて心が折れてしまう展開は、的確に真理をついている。 その後、かなわない存在だった京本に「認められる」ことで自信が回復し(感情があふれ、走り出すシーンの演出が見事だ)、画力だけではない創作力を開花させていく藤野。物語を生み出す発想力や構成力、コマ割り等の見せ方の創意工夫――。自身の強みと足りないものを受け入れ、京本に補完してもらうことでプロへの道を歩み始める流れは感動的だが、この幸運がなかったらどうか。 藤野は漫画家にならなかっただろうし、京本は自宅に引きこもったままだったかもしれない。何を幸せととらえるかは当人次第だろうが、費やした努力が結果に直結したかどうかは紙一重なのだ――ということを本作は突きつけてくる。その象徴が、後半に待つ悲劇だ。 ネタバレを避けるために詳細は省くが、クリエーターとして認められなかった結果、周囲に憎悪をぶつけてしまう人物が後半に登場する。その人物を藤野や京本とスタートを同じくする存在ととらえるか――つまり「ふるい落とされてしまった」人物ととらえるかどうかは観賞者それぞれに委ねられているかもしれないが、ただ「作る」だけでは終わらせてくれないものづくりの正体が、明確に影を落としている。自分とは異なる才能を持つ他者との出会いを、何に変換するか――。 ここで注目したいのは、タイトルの「ルックバック」。「Look Back」という言葉には「背中を見る」「振り返る」等の意味があり、原作の読者の間ではオアシスの名曲「Don’t Look Back in Anger」とのリンクも考察されている。そこに本作のキャッチコピー「――描き続ける。」を加味すると、さまざまな出会いにより痛みを受けた藤野が、それでもクリエーターとして創作に向き合い続ける姿が浮かび上がってくる。 ちなみに、藤野の部屋には「バタフライ・エフェクト」「時をかける少女」「ビッグ・フィッシュ」等をもじった映画ポスターが飾られており、これらの作品を見た者であれば、藤野の悲壮な覚悟を感じ取るのではないか。クリエーターは、ただ独りではいられない。認められた以上は、生きて、作り続けていくのだと。 「ルックバック」は6月28日(金)全国公開。
映画ライター SYO