軍人になる男子第一の時代…9人娘のわが家には入隊時の「鎮台祝」も無縁だった。戦後、3人の娘に恵まれた。肩身の狭い思いはない。平和な世の中が一番だ【証言 語り継ぐ戦争】
■藤山善子さん(91)宮崎県都城市山田町中霧島 【写真】〈関連〉「軍国主義の時代は二度とごめん」と語る藤山善子さん=都城市山田町中霧島
1933(昭和8)年5月、庄内町(現都城市庄内町)で農業を営む父・乙守善長(よしたけ)と母・トミの七女として生まれた。家は南洲神社参道入り口近くにあった。 きょうだいは、9人目まですべて女だった。当時は軍人となる男子の誕生が歓迎された。庄内では軍入隊時に鶏をつぶして隣近所に振る舞う「鎮台祝(ちんだいゆえ)」と呼ばれる宴を催すものだったが、わが家には無縁だった。父母も世間に負い目があっただろうと思う。40年、10人目にしてようやく長男が生まれた際は、地域の人が祝いの花火を上げてくれた。 男が尊ばれる時代にあっても、父は娘たちを都城高等女学校や和裁学校などに進ませてくれた。 女学校卒業後、小学校教師をしていた長姉のミヨは、鹿児島銀行の行員に嫁いだ。娘1人をもうけたが、43年9月に夫は陸軍に召集された。姉は戦地に向かう夫に会うため都城駅に赴いたが、行動を知られたくない軍は異なる場所で兵士を乗車させて、会うことがかなわなかった。
その後、北九州・門司港から夫の小包が届き、乳飲み子を連れて急ぎ同港に向かったが、輸送船は、既に出発してしまっていた。1カ月もたたない44年6月、夫の戦死通知が届いた。船はフィリピン沖で米潜水艦に沈められていた。「一目会いたい」という家族のささやかな望みさえ、かなえられない時代だった。 私は庄内国民学校(現庄内小学校)の児童だった。学校では43年ごろから、出征軍人宅の農作業を手伝う勤労奉仕が増え、通常授業は減っていた。麦踏みの時は「米英撃滅」と、大声で唱和しながら、力を込めて麦を踏んだものだ。女学校に在学していた姉は、都城駅近くの川崎航空都城工場に動員された。飛行機にペンキで日の丸を描く作業を任され、服はいつもペンキで汚れていた。つらい思いをしたことも多かったらしく、家に帰って泣いていることもあった。 45年春になると、庄内にも陸軍部隊が進出してきて、国民学校は宿舎となった。自宅の隠居部屋にも将校1人が寝泊まりし、佐賀出身の緒方さんという従卒が、軍馬で送り迎えをしていた。城山には、数多くの横穴壕(ごう)が掘られ、軍物資が蓄えられていた。
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