スマホで身に付いた孫の英語力に感服 ぼんやりしているとえらいことになる人生…やっぱり幼児期からの学習はやっておくべき
【椎名誠の街談巷語】 昔は無意味だとか、無用だと思っていたようなことが、今になって必然だったとわかることがある。当初はそんな気は全くなかったのに、時代が進んでくると、思いがけず、これはなかなかいいことなのだと思ったりする。そのひとつが最近、町の風景で見る幼児英会話教室とか幼児外国語学校といったものだ。 【チェックリスト】項目の合計が4つ以上の場合「スマホ依存の疑い」 ぼく自身は、小さい頃から海だの山だの川だのとひっきりなしにどろんこ少年時代を過ごしてきたから、そんなもの屁とも思わなかった。まだ「お受験教室」なんていうものが世の中にあまりなかった頃だった。 しかもわが家では兄や姉は小さいうちから英語教室だ、英会話教室だなどというところへ行っていたので、ぼくは反発的だったのだ。親もぼくにだけはそういうところへ行かせるようなことは全くなかった。どっちみちモノにならんだろうと思っていたのに違いない。親の感覚はそれで正しかったのである。兄や姉は東京育ちだったので、他県育ちのぼくへの差別や、環境の違いがあったかもしれない。 ただ、最近になって世の中をいろいろ眺めまわしてみると、子供らに英語を学ばせようとした親の感覚も正しかったのだなあと思うようになった。それはこっちもどんどん大人になっていき、いろんな社会の変化にも出会うようになって、ああやっぱり英語だけは幼児期からやっておくべきだったなあと思うようになったからだ。 そう思うようになった一端は、自分のまわりにとてつもない勢いで繁殖しているパソコンやスマートフォンなどからつながっていくインターネットの世界で、本当にこれはうかうかしているととんでもないことになっていくなと思ってきたからである。否応なしにいたるところこれらを使わなければならない状況になりつつある。ぼんやりしているとわが人生えらいことになるなあということがよくわかってきた。 今ぼくはワープロとスマホをどうにか使ったふりをしているが、その先生は孫である。わからないことがあると孫に聞けばなんとかなる。心から優しい良い孫で、ああこの人がいないとぼくは存在していないんだなあと思うぐらいである。 特に最近はスマホを使うときにも英語を理解していないと操作の途中でどうしようもないことになる。カタカナことばだらけだからだ。そういうことへの孫の習熟度合いも、英語の知識を基盤にして成り立っていることに先日ふと気がついた。これは孫と何の気なしに一緒に入った映画館で、ひまつぶしだったつもりの洋画を、彼は何の苦も無く理解し、認識している事実を横目で見たことによる。