<甲子園交流試合・2020センバツ32校>1942年幻の大会V、徳島商選手 「甲子園でプレー、大変な幸運」 目指した情熱、必ず役に立つ
新型コロナウイルスの感染拡大の影響で中止された春夏の高校野球の甲子園大会。春のセンバツ32校を招待する「2020年甲子園高校野球交流試合」が10日から始まる。太平洋戦争の時期にも春夏の大会が開催されず、別の全国大会が甲子園で開かれたことがある。1942年、「幻の甲子園」と呼ばれるこの大会で優勝した徳島商の一塁手、梅本安則さん(93)=東京都葛飾区=は、70歳以上離れた球児たちに、白球を追い続けたかつての自らを重ねる。 【真夏の熱闘】交流試合の写真特集はこちら 「戦時中にもかかわらず、日没後まで猛練習した」。40年に入学した四国の強豪校・徳島商での日々を笑顔で振り返る。朝日新聞社が主催する41年の全国高校野球選手権大会は中止となったが、「甲子園に行けるような時代ではないと言われながらも、『どんなことで甲子園の道が開けるか分からん』という思いがあった」と、練習を続けた。すると、翌夏に旧文部省などが同じ甲子園球場(現阪神甲子園球場)で全国大会を開いた。先立って松山市であった大会で、梅本さんらの徳島商は高知商と松山商(愛媛)を破り、出場を決めた。 「優勝戦(決勝)までの米を持ってこい」。後に日本野球連盟副会長も務めた故稲原幸雄監督のそんな指示で、ナインは1週間分の米持参で徳島を出発した。「お前たちは優勝して(徳島へ)帰るんだ」という稲原監督の気迫を受け止めた。 大会は戦意高揚を目的に開催され、召集令状の通達を知らせる放送が流れるなど、日ごとに濃くなる戦時色を感じさせる甲子園球場だったが、スタンドは超満員だった。初めて踏んだ甲子園の土は整備が行き届いて軟らかく、「選手に優しいグラウンドだった。自然に力を発揮できた」という。 緊張で体がこわ張ることは一切無かったといい、「日ごろの猛練習のおかげでね。練習より試合の方が楽という精神的な余裕があった」と笑う。当時の大阪毎日新聞(現毎日新聞)の紙面などによると、大歓声を力に強豪校と戦った徳島商は京王商(東京・現専修大付)、水戸商(茨城)、海草中(和歌山・現県立向陽)をいずれも1点差で降し、平安中(京都・現龍谷大平安)との決勝は延長戦を制して全国の頂点に立った。 延長十一回2死満塁、四球による押し出しで勝利が決まった。二塁走者だった梅本さんは「皆が引き揚げるのを見て『勝ったんだ』と(実感が湧いた)」と当時を思い返す。 甲子園から戻ると、新チームの主将を任された。次なる全国制覇へ向けて練習を再開したが、約1カ月後、神戸市の造船所へ学徒動員された。グラブを手にすることもできず、作業に追われた。1カ月あまり前、甲子園球場で大歓声の中、全国制覇したナインにも、戦局の悪化は容赦なかった。やがて、工場の寮が空襲に遭い、徳島へ戻ったが、45年7月には徳島大空襲で、自宅や野球道具、学校にあった優勝旗や賞状も焼失した。 一度は目標を失いかねない状況だっただけに、甲子園大会が無くなった球児の気持ちはよく分かる。だからこそ、「甲子園を目指した時の情熱や練習は、必ず将来どこかで役に立つ。将来に望みを託して頑張ってほしい」と話す。 「戦争のさなかに1週間、甲子園でプレーできた。それはもう大変な幸運です」。戦時中に野球ができた喜びを、何度も繰り返した。【岩本桜】