ソクラテスの「産婆術」、老子の「空虚のデザイン」…哲学者や思想家はいかに世界をアップデートしてきたか
誰もが新しい知を発見できる
例えば紀元前の哲学者、ソクラテスは教科書では「無知の知」を唱えた人間として定義されている。無知の知とは、真の知に至る出発点は無知を自覚すること、だ。 篠原はこの「無知の知」は興味深い考えではあるが、それほど重要だろうかと問うた上で、ソクラテスの凄さは「産婆術」であったと分析する。産婆術とは本来、助産師の技術を意味する。ソクラテスは「知識が生まれるのを手助けする」技術をそう呼んだのだ。 〈ソクラテスは知識が豊富だったはずなのに、自分が説教するより若者から話を聞きたがった。若者に「ほう、それはどういうことだね?」と問う。すると若者はウンウン考えて答える。それに対して再び「ほう、それとこれを結びつけて考えるとどういうことになるだろう?」とさらに問うた。 これを繰り返していくと、若者は問いによって頭脳が刺激され、今まで考えたこともないアイディアが自分の口から飛び出してくることに驚いた。〉(本書より。以下同) 篠原は過去の賢人たちの思考、発想を十全に理解するには、時代背景を考慮しなければならないと考える。 「ソクラテス以前、知は天才だけが生み出されるものでした。ソクラテスが産婆術で示したのは、凡人同士でも問いを重ね、考えを深めることで新しい知を生み出せるという大発見だったんです」 また、この産婆術は、「弁証法」と表裏一体であると付け加える。 自らの無知を自覚し、外に心を開いている人間は問答を楽しむことができる。一方、心が閉じている人間は問答により、知識の窮屈さ、融通の効かない部分が明らかになる。これが弁証法である。ソクラテスは、知を特権階級から庶民に開放した哲学者だった。 「ソクラテスは、『知の民主化』を進めたとも言えます。訓練を受ければ凡人でも研究者になれますが、これも産婆術の成果と言えるでしょう」
時代背景と前提を考慮
篠原の興味はアジアの中国にも向かう。 西洋思想を一通り読んでみたが、「体形に合わない洋服を着せられたような心地悪さがあった」と振り返る。『老子』を手にとったとき、不思議な落ち着きを感じたという。 〈『老子』の面白いところは、「空虚のデザイン」という、非常にユニークな提案をしているところだろう。たとえば水に丸くなれ、四角くなれと命令してもそうはならず、殴っても蹴っても飛び散るだけに終わるだろう。しかし丸い器、四角い器という「空虚」を用意すると、水は自発的に空虚を埋めようとし、丸くなり、四角くなる。〉 この空虚のデザインという発想は篠原の専門である微生物研究にも共通する部分があった。彼は指導している学生にこんな問いを投げかけることがある。 ――ここに邪魔な木の切り株がある。これを微生物の力で取り除いて欲しい。 ほとんどの学生は「木の成分を分解する微生物を見つけて、それを切り株にぶっかける」という答えを出す。しかし、この通りに実行すると土着の微生物に駆逐されてしまうという。 一つの答えは、切り株の周りに炭素以外の成分を含む肥料を撒くことだ。 「土着微生物は炭素さえあればパラダイスなのに、という一種の炭素欠乏症に陥ります。切り株は炭素の塊です。すると切り株から炭素を取り出すことが得意な土着微生物が動き出す。ほかの微生物は炭素の分け前をもらおうと、支援に回る。土着微生物の生態系全体が切り株を分解する方向に動き出すんです」 炭素が足りないという「空虚」を作り出すことで、意思のない微生物を自分たちの思うように動かしたのだ。 このように過去の賢人たちの言葉には現代社会をより良く変えて行くヒントが隠されている。ただし、気をつけなければならないのは、哲学、思想はその人間が生きた時代という背景、前提を斟酌しなければ、誤った理解になってしまうことだ。 例えば、経済学の父であるアダム・スミスは経済は市場に任せた方がうまくいくという『神の手』(見えざる手)を唱えたことで知られる。しかし、この頃の国家はかなり強硬に経済に介入していた。 後の政府とはその度合いが違う。それにもかかわらず、自由主義、新自由主義者のように「神の手」を強調することは拡大解釈であり、アダム・スミスの意図とかけ離れていると篠原は疑問を呈する。 また、自分は得意とする分野に特化して、不得手な分野は他人に任せることで「ウィンウィン」の関係となるというリカードの「比較優位説」がある。これも「強い立場の人間が弱い立場の人間を困らせる」ことがないという前提条件が欠けてしまえば、貧富の差の拡大が促進される。比較優位説は悪用されやすいのだ。 文・構成/田崎健太(ノンフィクション作家) (『kotoba』2024年春号より抜粋)