才能と美貌に恵まれながら急逝した藤原妍子
中宮立后の儀式のために東三条殿に戻った際、敷地の井戸から妍子を呪詛した痕跡が見つかっている。発覚した翌日には人魂が漂うなどの怪奇に見舞われたという。何者の犯行かは定かではないが、どうやら妍子の立后を快く思わない連中がいたらしい。 翌年に妍子は禎子(ていし)内親王を出産。しかし、皇子を望んでいた道長は、女子出産と聞いて、とたんに不機嫌になったとの逸話がある(『小右記』)。夫とも不和で、父からも愛想を尽かされたと感じたからなのか、妍子が派手好みだったと伝わるのは、こうした悲しみを紛らわすためだったのかもしれない。 1017(寛仁元)年に三条天皇が崩御すると、後ろ盾を失った妍子と禎子内親王は、姉の彰子のもとに身を寄せざるを得なくなった。 実は、彰子と妍子の姉妹関係は、微妙な間柄だったらしい。妍子がしきりと宴会を催すのに対し、彰子は苦言を呈していたという。 宴を好む道長や妍子に、藤原実資(さねすけ)は「疫病が発生し、死者も数えきれず、路頭は汚穢だらけなのに、道長一門は疫病を恐れず遊覧に忙しい。愚かなり」(『小右記』)と不快感をあらわにしている。これを堂々と指摘した彰子に、実資は「賢后というべし」と称賛の言葉を贈った。 指摘された側の妍子の心中はどうかというと、それを知るすべはない。しかし、出産した皇子が天皇となり、国母として政務を左右する朝廷の重鎮となった姉の彰子に自身の身の上を重ね、劣等感を抱いたとしても不思議ではない。二人の交流は少なかったようだ。 後一条天皇の即位した1018(寛仁2)年に、妍子は皇太后となった。 ところが、1027(万寿4)年に急な病で倒れている。娘の禎子内親王が敦良(あつなが)親王に入内することが決まっていたものの、その支度が進むにつれて病状が悪化し、入内に同行することができなかったらしい。陰陽師の占いによれば「氏神の祟りかもしれない」という(『栄花物語』)。 病状は回復と悪化を繰り返していたが、同年9月に父・道長や兄・頼通らに見守られながら息を引き取った。享年34。道長は「年老いた父母を残してどこに行ってしまうのか。私をお供に連れていきなさい」と嘆き悲しんだという。 道長の娘の中でも、妍子は最も美しい美貌の持ち主だったと伝わっている。和歌にも優れ、8首が『新古今和歌集』に入集した。才色兼備の女性だったようだ。
小野 雅彦