真田父子が対局した囲碁の棋譜? 長野・松代で検討会
同席していた日本棋院長野県本部の羽田晋一・事務局次長は講演の後、「この棋譜の対局は最後まで戦いの連続で、打ち手には大変な胆力が要る。アマチュア(のレベル)を超えていますね」とも指摘。戦国武将らしい豪快で粘り強い真田の碁なのか、後の棋士の対局を真田父子のものとしたのか、謎が残ります。 真田昌幸は関ヶ原の戦いで西軍に付いたため九度山に蟄居(ちっきょ)の身となり、「ともに居た二男の信繁(幸村)との囲碁のエピソードも伝わっている」と中田さん。昌幸が「関ヶ原のあと、いつ関東勢が大阪に来るか分からない」と碁石を大阪城に見立てて置き、対策を研究。信繁も「その時は豊臣に報いるために馳せ参じたい」と応じたといった話を紹介しました。昌幸父子の周辺には常に囲碁があったようです。 中田さんの説明だと、江戸時代は囲碁の家元制度もできて本因坊、井上、林、安井の4家が幕府から扶持を得て力を持ち、武士の間でも囲碁はブームに。「賭け碁も広がり、松代藩は2度にわたり賭け碁禁止令を出しました」(中田さん)。囲碁を奨励しながらも過熱状態の抑制に頭を痛めたようです。 松代町では、当時最強の囲碁棋士といわれた藩士の関山仙太夫を顕彰して毎月子どもの囲碁教室や大人の記念碁会を開いています。今回の講演・検討会もその一環で、参加者の対局などもありました。
------------------------------------ ■高越良一(たかごし・りょういち) 信濃毎日新聞記者、長野市民新聞編集者からライター。この間2年地元TVでニュース解説