「電車内のマナーが悪い」と互いに批判しあう「若い女性」と「高齢男性」の深刻な対立
「マナー論争」は世代や性別などの社会的属性をめぐるものに
いずれにしても、多数の読者の意見の可視化は、細かな部分においてマナーに対する意見の対立やすれちがいを露にすることにもつながる。人びとがそれぞれに気になることを報告するため、さらに細かな事象が問題として提示される。また、とりわけ対立が際立っていたのは、「高齢者と若者」、「女性と男性」、「おばさんとおじさん」のあいだでかわされる論争であった。 たとえば、さきほどの『関西経協』の連載では「老人が前に立っていても平然としている若者」と「座席をほしがる厚かましい老人」の対立が描かれており、これは世代を超えた同一人物の裏返しであると批判される。連載の内容自体に対する批判や注文も寄せられている。 ほかにも「しまりなく笑う青年に小声で厳しい口調で注意したことを肯定的に書いているようだが、他人の笑いに対して注意することはない」といった批判がある。その一方で、タバコやガムに関する指摘はあるが酒に関する指摘がみられないので、中年の酔っ払いの吐き出す息が醸し出す独特の臭気に対してもっと指摘してほしい、などである。 1987年1月22日東京版の朝日新聞には、「近ごろの乗客のマナーはひどい。とくに若者が腹立たしい」という30本前後の電話が新聞社にかかってきたことが報告されている。ドア付近に立っていた女子高生を駅の助役が降ろしたところ、女子高生が足に軽いけがをしたという出来事の報道に対する反応であった。当時の国鉄は謝罪しているのだが、女子高生を責める電話ばかりであった。記者によれば、一人の老読者は、日本は豊かになったが礼節が足りなくなっていると強気だったという。 しかし、その1か月後、2月19日の「女から男へ」という記事では、「車内マナー」というリードがつけられて、「例外なく目につくのが中年およびそれ以上の年齢のオジサンたちのマナーの悪さだ」とされている。そして、足を投げ出す、居眠りをして寄りかかる、大きな口をあけていびきをかく、鼻をほじる、その指をシートでふく、頭をかいてふけを落とす、クシャミをかけるなどの放埓ぶりを報告している。 さらに、空っぽの胃袋の口臭や酒臭い息が充満する満員電車は、避けようとしても逃げ場がないとも訴えている。フリーライターの女性だという投稿者は、スーツを着用したサラリーマンは「服装だけは『よそゆき』だが、そのマナーに関しては、テレビの前にごろ寝の自宅感覚なのだ」と手厳しい。 このようにマナー論争は、年長者と年少者、男性と女性の対立が複雑にからみあいながら進み、問題点も多岐にわたっていく。ただし、その対立が典型的なものとして表れるのが年長男性と年少女性の対立である。その論点をざっくりとまとめるならば、年長男性は年少女性のはしたなさ、厚かましさ、図々しさを問題にし、年少女性は、年長男性のだらしなさ、不潔さ、臭いをマナー違反として指摘する傾向がある。前者にとってのマナー違反は「礼節上の無礼さ」に重点が置かれているが、後者にとっては「感覚的な不快さ」をもたらすことが問題になっている。 ここには礼節を重視する「交通道徳」や美学を表現する「エチケット」から不快を回避する「マナー」への規範の重点の移行と、その途上における複数の規範の対立をみることができるかもしれない。また、「ごろ寝の自宅感覚」を批判しているように、「家の延長」としての車内はすでに過去のものになり、「家のなかではないのだから、互いに他者を尊重してマナーを守るべき」であるという考えが浸透してきていることも確認できる。 礼節を中心とする道徳やエチケットは、その性質上、年長者から年少者に「啓蒙」的に伝達され、敬意や譲歩を求められる。しかし、相互のコミュニケーションの回避をマナーとして尊重する人びとにとって、それは「上から目線」の「過剰な介入」になりかねない。しかも、若者たちにとっての問題は、「礼節」というよりも、近接すると感覚的に「不快」になるような(ウザイ・ムカつく)他者である。ただし、それを露骨に指摘することは、年長者に対する「非礼」にあたる。こうしてマナー論争は、複数の社会的属性をめぐる規範の重なりとすれ違いをあらわにしていくこととなる。 連載記事<「胸をあらわ」にして電車を降りようとする母親の姿も…「大正時代」の路面電車の「今では考えられない光景」>もぜひご覧ください。
田中 大介