差別か、合理的な区別か? 現代社会のあいまいな境界を、“バカ差別”という言葉を入口に再考する
表立って差別をすることが許されなくなり、あらゆる格差は是正するべき、と捉えられる昨今。しかし、いつの時代も人間は「差」に敏感で、何かと差を作り、比べたがる生き物なのかもしれません。 建前として、“してはいけない”とされるようになった差別は決して人々の意識から消えることなく、地下に潜って根を張り、むしろ昔より苛烈になっているように思えます。たとえばルッキズム。「デブ」や「ブス」は言ってはいけないということになっても、SNS上では他人の容姿をジャッジする投稿が溢れ、ジャッジの基準もどんどん厳しくなり、ルッキズムが過激化・先鋭化しているように思います。 様々な上下差、それに対する人々の意識の変遷を考察する『消費される階級』(集英社)という本があります。この本で取り上げるのは、例えば「男高女低神話のゆらぎ」、「まぶた差別と日韓問題」(一重二重問題)、「東大礼賛と低学歴信仰」「姫になりたい女の子と、姫として生まれた女の子」(天皇家のプリンセス問題)などです。
“頭の良い人”が人の上に立つことに異論はないが…
その中で今回取り上げるのは、「バカ差別が許される理由」という章です。著者である酒井順子氏は、様々な差別をしてはいけないという共通認識が広まる中で、「そんな中で一つ、世界中で容認され続けている差別」として「バカ差別」を挙げています。 頭の良い人は頭の悪い人を下に見ても仕方がないし、それは当然の行為。頭の良い人がそうではない人の上に立つことによって社会は進歩していくのだ、という感覚が世にはあります。頭の良い人が世を動かすシステムを構築し、そうでない人はそのシステムで動かされる側、と言いましょうか。「それは当たり前でしょう。頭の良くない人が上に立っても困ってしまうし」と多くの人は言いましょう。私も、首相がトンチンカンな発言をしたりする度に「バカじゃないの」などと言う訳で、トップに立つ人には、頭の良さを期待しているのです。 (『消費される階級』酒井順子著、集英社)しかし「身長の高低」や「顔の美醜」といったものと同様に、「頭の良さ悪さ」もまた脳の力ということで肉体的資質の一つであるとするならば、脳力の高い人が脳力の低い人を支配することにも抗議の声が上がってもいいのではないか、という気がするのです。 (『消費される階級』酒井順子著、集英社)酒井氏は、頭脳労働よりも肉体労働の方が賃金が低い傾向にも疑問を呈しています。キャリア官僚や一部企業などは、一定レベル以上の大学出身者しかいない。でもそれは、バカ差別とは認識されていないというのです。
ヒオカ