なぜ北の富士さんは自筆でコラムを書き続けたのか!? 背景にあった“本紙”の事情…生まれた『鬼才』、下ネタの使い方も見事だった
◇記者コラム・人生流し打ち 中日スポーツの名物コラム「はやわざ御免」は、亡くなった北の富士さんが自らペンをとって書いてきた。筆者が知る限り、このスタイルを貫いた本紙評論家はほかに中日監督を務めた近藤貞雄さんだけ。ほとんどの評論は記者が聞き書きしている。なぜ北の富士さんは自分で書くのか本人に聞いたことがある。 ◆北の富士さん、「はやわざ御免」の生原稿【写真】 「先代(元横綱千代の山)が鉛筆をなめ、うなりながら書いてるのを見ていたからね。自然に最初からだよ」 もともと作文好きだったという北の富士さんには、原稿用紙に向かう千代の山さんが文士のように見えたらしい。その師匠は北の富士さんをスカウトした人で、1977年10月に亡くなるまで本紙で「突っ張り御免」を担当した。 では先代はなぜ自分で書いたのか。当時を知る先輩記者に聞くと「うちは昔から人手が足りなくてさ、他紙のように聞き書きする記者をおく余裕がなかったんだ。そこで千代の山さんに頼み込んで書いてもらったんだけど、当時のデスクが鬼でね。ダメだしして書き直させたこともあったんだ。千代の山さん、ねじり鉢巻きで書いてたぞ」とのことだった。 それが結果的に鬼才のコラムニストを生むことになる。後継となった北の富士さんはまず国語辞典を買い、先代が残したスクラップを参考にすることから始めたそうだ。評論家デビューは78年3月の春場所初日、中日スポーツは1面左肩にコラムを掲載した。北の湖に敗れた蔵間に対し「負けて覚える相撲かな」の一文をささげている。 文才だけではない。現役時代には歌謡曲「ネオン無情」をヒットさせ、増位山、琴風デビューへの流れを築いた。優しい人で、担当になった直後、筆者が周囲になじめずにいると向島の料亭に連れて行ってもらったこともあるし、こんな話でなごませてくれたことも覚えている。「若い衆とハワイに行った時に、ひどい便秘になってな。それが、突然出たんだよ。芸術的なすごいのが。若い衆に『すぐ見に来い』と声をかけたんだが、誰も見にきやしない。あいつら冷たい」。話術の天才でもあった。 下ネタの使い方も見事で、2年ほど前だったか、コンビニで目薬を買ったつもりが、袋をあけたら避妊具だったというコラムは秀逸だった。もちろん相撲評論では相撲協会に一切忖度することなく、けいこ不足の力士などは一刀両断だった。 前回このコラムで紹介したように筆者は忘れられない恩を受けた。あれを書かせたのは虫の知らせだったのか。北の富士さんの人柄と文章に惚れてきた筆者は無念でならない。 ▼増田護(ますだ・まもる)1957年生まれ。愛知県出身。中日新聞社に入社後は中日スポーツ記者としてプロ野球は中日、広島を担当。そのほか大相撲、アマチュア野球を担当し、五輪は4大会取材。中日スポーツ報道部長、月刊ドラゴンズ編集長を務めた。
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