逃亡生活の苦しみ「並大抵のものではない」… それでも桐島聡容疑者に「自首」とどまらせたもの
なぜ「自首」できないのか
自首は簡単そうで難しい。筆者が就労支援や保護司で対応してきた刑余者をみると、そもそも犯罪の実行に着手する際、リスク面の認識が甘いケースが散見される。例えるなら「飲酒運転しても自分なら捕まらない」というような根拠なき甘さだ。刑余者のケースを見るに、犯行が短絡的であり、想定される結果の想像力が欠如し、先の見通しができない人が一定数存在する。 さらに、その犯罪を、責任の否定(仕方なかった。社会が悪い)、加害の否定(盗んだんじゃなく借りてただけ)、被害者の否定(あいつの態度が悪かった)、被害者の非難(自分たちだけいい生活しやがって)、忠誠心への訴え(仲間のためにやった)等の理屈で、犯罪を合理化・中和している。これでは、自分の行為に反省がなされず、自首など望むべくもない。
現代社会ならではの「自首しづらさ」
ただ、そうはいっても、すべての犯罪者が自首をしたくないわけではない。昨今横行している闇バイトなどの従事者のケースでは、「逮捕されたから(闇バイトを)やめられた」「逮捕されてホッとした」等という声がある。 一方で、自首して逮捕された場合、刑罰を受けることに加えて、社会的な制裁を恐れる声も側聞する。それはたとえば、銀行口座が開設できないことや、ネット上に残るデジタルタトゥーにより就職できないことなどである。 昨今の日本社会は厳罰化傾向にある。加えて、デジタルタトゥー問題にみられる犯罪情報の社会における共有、銀行口座等の契約主体になれなくなる可能性などから、1970年代の桐島容疑者の事件当時より自首がなされにくい環境にあることは否めない。
廣末 登(ひろすえ のぼる) 1970年、福岡市生まれ。社会学者、博士(学術)。専門は犯罪社会学。龍谷大学犯罪学研究センター嘱託研究員、法務省・保護司。2008年北九州市立大学大学大学院社会システム研究科博士後期課程修了。著書に『ヤクザになる理由』『だからヤクザを辞められない』(ともに新潮新書)、『ヤクザと介護』『テキヤの掟』(ともに新潮新書)、『ヤクザと介護』『テキヤの掟』(ともに角川新書)等がある。
廣末 登