ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (14) 外山脩
仙台の藤崎商会の野間たちは、支店開設のためやって来た。サンパウロ市の中心街に、日本製の雑貨品を売る店を開け、早々から繁盛させていた。 この藤崎商会は、店主の藤崎三郎助という人が、進取の気性の持主で━━明治の地方商人としては驚くほどの行動力であったが━━欧米を視察、フランスその他に日本製品の輸出を試みていた。 そんな時期、堀口の講演を聞き、サンパウロへ支店を……ということになったのである。今日風に言えば、進出企業の第一号であった。その店員たちは派遣社員のはしりということになる。 後藤武夫は、藤崎商会の人間ではなかったが、出発前に仲間入りさせて貰っていた。 藤崎商会は後に撤収したが、後藤はこの国に住みついた。苦境に陥った同胞の世話を誰彼となく焼き、日系社会のためにも尽くした。 戦後、日本政府から叙勲されている。 長命であった。筆者は若い頃、晩年の後藤に何度か会ったことがあるが、好人物であった。 明穂梅吉。これも変わっていて、杉村報告書の中の「ブラジルでは、国民の多くに麦藁帽子が愛用されているが、その材料は、日本品であるらしい」という部分を読んで、郷里出雲の麦稈真田(ばっかんさなだ)を売り込もう……とやってきた。 隈部一家の場合、主の三郎が渡航を思い立った。移民に関する何らかの事業を手掛けることを考えていたという。そのため、事前にリオの杉村公使と連絡をとっていた。到着後のことは、杉村と相談するつもりでいた。 さらに県知事や地元の新聞の協力を求めて、同志を募った。すると同行希望者が多数現れた。 結局、隈部一家七人と安田良一、九玉吉造、長瀬某、鳥居某の四青年とアメリカ移住の経験のある本田竹治一家五人が一九〇六年五月、鹿児島を後にした。 神戸でブラジル行きの船に乗るつもりだったが、子供の1人が眼疾で乗船許可が降りず、一家は次の船を待つことになった。 他の四青年と本田一家は乗船した。が、ロンドンに着いた時、杉村公使の訃報とブラジルでは不景気で欧州移民が騒いでいるというニュースが入る。これで本田一家と鳥居は計画を中止、引き返すことにした。 残る安田ら三青年は、そのままブラジルに向かった。 神戸に残った隈部一家は、横浜に移っていたが、新たに有川新吉、松下正彦、西沢為蔵の三青年が加わり、七月に出発した。杉村公使の訃報は受け取っていたが「ままよ…」と決心した。 彼らは安田たちより数カ月遅れてサンパウロに着いた。しかし、やはり方途に迷い、隈部一家は市内で質素な家を借りて、煙草巻きの内職を始めた。元判事、弁護士で四十代の三郎にとっては苦痛であった。 他の六青年はホテルの下働きなどに自活の道を求めた。 広島県人、岡田芳太郎の場合は、杉村報告書も堀口の帰国講演も全く関係なかった。自称〝世界徒歩旅行家〟であった。一九〇一(明34)年、日本を出国、ハワイ、北アメリカ大陸、欧州を経て中南米に至り、ブラジルその他を廻って、最後に再びブラジル入りし、一九三三年レジストロで死亡している。 陸上は殆ど徒歩で旅したという。没時、五十七歳であった。 目的はハッキリしない。最初は米国に留学する予定であったが、人種差別を経験して嫌になり、以後一切の物欲を断ち、ただ歩き続けたという。 日本の新聞に異国の珍しい話を投稿、その原稿料で経費を賄っていたらしい。 鳥取県人、小谷初太郎と赤山長次郎はサンパウロのホテルで下働きをしていた。二人については、それ以上のことは伝わっていない。 伊勢商人の息子、大平善太郎は藤崎商会開店の頃、サンパウロに来ていた。藤崎の繁盛ぶりを見て、自分も……と発奮、日本に帰り、父親の協力を得て商品を仕入れ、翌年、同行者二人とともにリオに来て店を開いていた。