「リレーに選ばれたくない」「褒められるのは嫌」…戦慄の教育現場ルポ「『浮く』を恐れる」子どもたち
昨年、某小学校で、運動会のリレーが中止されることになった。 先生たちが徒競走の速い子どもたち数人をリレーの選手として選んだところ、こういう声が続出したという。 「そ、そこやめて!」セックス、違法薬物…毒親に苦しめられる少女たち「生々しい実態」写真 「リレーの選手に選ばないでください。でなければ運動会は欠席します」 選出された子どもの7割が辞退を望んだのだ。 先生たちは相談の上、足の速い順にリレーの選手を選ぶのではなく、希望者を募って選ぶことに決めた。そしてスピードを競わせるのをやめ、最後は全員で手をつないでゴールをすることにしたらしい。 運動会でリレーといえば、一時代まで花形だったはずだ。だが、最近は「浮く」「目立つ」「人から見られる」と恐れて、選出されるのを嫌がる子が増えているらしい。 いつから、なぜ、このような事態になったのか。 近著『ルポ スマホ育児が子どもを壊す』(新潮社)では、保育園から高校まで200人以上の教育関係者に取材し、現代社会が子どもたちに及ぼす影響を明らかにした。その中から、今の子どもたちの抱える不安の実態を見ていきたい。 ◆表彰されるのを嫌がる 学校には、数十人から数百人に及ぶ子どもたちが集団生活を送っており、その中では必然的に競争原理が働く。 テストの点数、美術や音楽といった創作物、部活動での成績、コンクールやディベート……。そうした中で、子どもたちは同級生と競い、少しでも良い結果を示すことで、優位に立とうとする。 だが、近年、子どもたちの間で、そうした競争を避ける傾向が高まっているらしい。都内の中学校に勤める校長は話す。 「昔の学校は競争が当たり前でした。勉強でも成績でも、他の子より良い成績を出せば、周りから認められてクラスのカーストが上がった。でも、ここ数年はそういう競争に身をさらすことを嫌がる子が目立つようになりました。彼らが一様に口にするのが『浮きたくない』という言葉です」 どういうところでそういうことを感じるのか。校長は一例として次のようなケースを紹介してくれた。 ・授業中に先生から「よくできたね」「優秀だね」と言われることを嫌がる子どもが増加した。先生は褒めているつもりでも、子どもからすると「悪目立ちする」と考えているらしい。したがって、先生から褒められるとわざと反対に叱られるようなことをすることがある。 ・部活動やコンクールで良い成績を収めた時、朝礼などで表彰されるのを嫌がる子が増えた。表彰式の日になると、表彰されるのを避けるために学校を休むか遅刻をする。 ・部活動でキャプテンになることを嫌がる子が増えた。リーダーシップを悪いことだと考えている子がいるらしい。 以前から目立つことを苦手だと思う子は一定数いたと思う。ただ、現場の先生によれば、その割合が増えており、冒頭の運動会のリレーと同様に、学校によってはコンクール、学芸会、部活動が成り立たなくなるレベルにまでなっているそうだ。 先の校長は言う。 「学校には勉強が得意な子もいれば、絵や歌が得意な子もいるし、スポーツに秀でた子もいます。教員としては学力だけじゃなく、そうしたさまざまなところで子どもを褒めることで自尊心をつけてもらいたいと願っている。 けど、それぞれの分野で秀でた子に限って、目立つことを避けたいという気持ちが強い。そうなると、そもそも点数をつけたり、みんなの前で表彰したりする意味ってどこにあるのってなってしまうのです」 実際に運動会のリレーから「足の速さを競う」という目的が失われれば、そもそもリレーをする意味がなくなる。それと同じことが、コンクールや部活動においても起きつつあるらしい。 どうして子どもたちはそんなふうに考えるのだろう。愛知県の中学校に勤める別の校長は次のように話す。 「生徒たちは良くも悪くも目立つことを嫌います。彼らは均一でありたいと強く願っていて、目立つことを恐れているのです。これは、同調性とも言い換えられるかもしれない。みんなと同じことが安定であり、安心なのです。そこから少しでもはみ出して『浮く』ことは怖くて耐えられないのです」 ◆協調性を求めた結果…… 建前の上では、現代の教育現場が子どもたちに主体性を求めていることになっている。自ら考えて取り組むことによって、アイデンティティーを確立し、自らの地位を作り上げていくことである。校長が話す状況は、教育が目指すことと相反してはいないだろうか。 校長はつづける。 「学校のことに関していえば、ゆとり教育以降に競争を排除して、協調性を求めるようになったことも要因として大きいのかなと思っています。それまでの学校は相対評価に代表されるように競争を煽って突き抜けることを求めていたのですが、それをやめてみんなが平等に力を合わせてがんばっていくことを求めるようになった。 平等が重視される中では、生徒たちも個性を押し隠して、目立つことを避けるようになります。それが〝浮く〟という言葉を生み出したのではないでしょうか。今の生徒たちにとって目立つというのは、周りから変な目で見られるリスクでしかないのでしょう」 たしかに学校は以前に比べて平等性を意識するようになった。それはそれで良いことだと思うが、校長が指摘するのは、一部でそれが行き過ぎる傾向にあることだという。 たとえば、冒頭で紹介した学校がそうだ。この学校ではあらゆることで「順位をつけるのをやめよう」という決定をした。それによって、徒競走の時は足の速い人も遅い人も、最後はみんなが手をつないでゴールをすることになったり、授業で子どもがどれだけ的外れな答えや意見を述べてもそれを褒めたたえたりすることになったという。また、別の学校では、給食のおかわりが禁止、休み時間に生徒が遊ぶ場所をすべて順繰りに先生が決めるといったことが行われているという。 学校の「平等」がこれくらい過剰になれば、子どもたちが目立つのを避けようする気持ちもわからないでもない。だが、先生方によれば、コロナ禍によってそうした傾向は急激に強くなっているという。【後編:「演劇の出演時間も平等」均一化を求める衝撃の教育現場】では、現代のそうした潮流を紹介したい。 取材・文:石井光太 ’77年、東京都生まれ。ノンフィクション作家。国内外の文化、歴史、医療などをテーマに取材、執筆活動を行っている。著書に『絶対貧困』『遺体』『「鬼畜」の家』『43回の殺意』『本当の貧困の話をしよう』『格差と分断の社会地図』『ルポ 誰が国語力を殺すのか』などがある。
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