「これが得意」だと思えることも、他者から見てイマイチであれば苦手と同じである、という話
【これはnoteに投稿された富永朋信(プロフェッショナルマーケター)さんによる記事です。】
今回のCOMEMOのお題はこちら。
【#苦手な仕事克服のコツ は?日経電子版が皆さんの意見募集します】 ※ここに貼られていた記事のURLは【関連記事】に記載しています
筆者は新卒で入った会社で6年、その次の会社で3年仕事をした。 両社ともマーケティング部門の仕事であり、業務の中で当然のようにやる業務としてプレゼンデックを作る、ということがあった。 ので、自分はプレゼンデック作りが得意である、という意識を持ち、なんなら自信を持っていた。 それから、プレゼンデックとは別の話として、学生の頃から、自分が論理的であることにも自信を持っていた。議論して負ける、ということがあまりなかったからだ。 縁あって、その次の会社に入り、やはりマーケティング部門で仕事を始めてしばらくした時のことである。上司にこう言われた。 「あなたのデックは、何が言いたいかわからない」 非常に心外であったのだが、上司にそう言われては仕方ない。 彼の指示で、週に何度かのプレゼンデック1000本ノックミーティングを持つことになった。 自分で何か、題材のデックを作っては、上司に批判され、その場で直す。 これを繰り返す、上司と2人の重たいミーティングである。 その中で筆者のデックは論理的ではない、と度々指摘された。 これも心外であった。 「あなたが上司でなければ、言い負かしたいところだよ」などと心の中で不貞腐れたものだった。 上司、または入社した会社の流儀・型にはまれ、と言われているのか、と感じたこともあった。型破りであることを是とする普段の上司からすると、ダブルスタンダードなんじゃないか、と冷ややかな気持ちになった。 だが。 ミーティングをしばらく続けているうちに、はたと3つのことに気づいた。 一つ目は、筆者は、自分が「どのようにしゃべるか」を想定し、その流れをスライドに落とす、ということをやっている、ということだ。 プレゼンはインパクトが大事なので、聞き手にある種の驚きを感じてもらい、その後で種明かしをする、ということをやる。この場合、演繹的な展開にはならないが、結果としてそれ以上の効果が得られることがしばしある。 筆者はそういうこと「ごっこ」を好き好んでやって、悦に入っていた。 二つ目は、自分の喋りの中には、論理の飛躍や、根拠の提示の欠落が多く見られる、ということである。 筆者に限らず、話し言葉一般にはそういう傾向があると思うし、それ自体はまぁ普通のことだと思うだが、問題は、それをスライドにトレースすると、そのまま論理に欠ける文脈となってしまうことだ。 三つ目。だんだん辛くなるところである。一つ目と二つ目を掛け合わせると、自分が議論に強い(と思い込んでいた)のは、少なくとも自分が論理的だから、では全然なかった、ということにも気づいた。 そのような錯覚に陥っていたのは、筆者がインパクトのために妙なレトリックを使ったり、普通の人であれば調和を重んじてこれ以上はやめておく、というところでも無遠慮に主張を続けていたり、ということをしていた結果、相手が引き下がっていてくれたに過ぎない。なんという恥ずかしさ。穴があったら入りたいとはこのことである。 ことここに至り、自分がプレゼンデック作りが得意だ、という意識は消し飛んだ。まずは論理構成をしっかりできるようにならなければ話にならない。 責め苦である、と感じていたミーティングは、大事なトレーニングの時間に変わり、しばらくして筆者は上司から免許皆伝をいただいた。 現在も時々プレゼンデックを作ることはあり、その際は未熟だった時のように自分の話すストーリーに合わせて組み立てるが、その背後では飛躍なく論理が追える構成としている。(はずである。) 厳しく教えてくださった当時の上司には、感謝してもしきれない。 さて。 過去の恥ずかしいエピソードをご紹介したのは、自身の「苦手」やその逆としての「得意」という感覚は、他者の評価と必ずしも一致しているわけではない、ということを言いたかったからである。 筆者の周りにも、 ・自信満々にプレゼンするが、論理すら追えていない ・自信満々にプレゼンするが、論理しか追えておらず、心が動かない ・筆者から見たら名文筆家であるのに、本人は文章をしたためることに苦手意識がある ・筆者から見たら創造力が高いのに、本人はアイデア出しに対する苦手意識がある といったケースは枚挙にいとまがなく、自己認識と他者評価のズレは遍在していることが見て取れる。