【追悼’24】漫画以外でも多才ぶりを発揮していた…楳図かずおさんが手がけた〝ホラーランド〟の中身
‘24年も多くの著名人が惜しまれつつ旅立っていった。過去に本誌が紹介してきた記事などをもとに、往時の活躍をふり返り、故人を偲ぶ──。 【迫真の演技で】すごい…自身が作ったお化け屋敷におののく楳図かずおさんの〝恐怖マンガ顔〟 ◆漫画だけでなく、俳優や音楽活動も 10月28日、漫画家の楳図かずおさんが88歳で亡くなった。楳図さんは7月に自宅で倒れて搬送され、末期の胃がんであることが判明。9月から都内のホスピスで終末期医療を受けていた。10月に入ってからは体力が低下していたという。 楳図さんは1936年和歌山県に生まれた。小学校5年生のときにお祭りの露店で売っていた手塚治虫の『新宝島』を読んで「あっ、僕も漫画家になろう!」と思ったそうだ。 ’55年、高校3年のときに童話『ヘンゼルとグレーテル』を題材にした水谷武子との共作『森の兄妹』などでデビュー。’61年に発表した『口が耳までさける時』で「恐怖マンガ」という言葉が初めて使われるようになったという。1963年に上京して以降は、『へび少女』(’66年~’67年)、『猫目小僧』(’68年~’76年)、『漂流教室』(’72年~’74年)などの数々の人気作品でホラー漫画の第一人者と呼ばれるようになる。その才能はギャグ漫画でも惜しみなく発揮され『まことちゃん』(’76年~’81年)は国民的ヒット作となった。 多才な人としても知られている。上京してすぐの頃には昼に漫画を描きながら俳優を志して劇団ひまわりに入団。映画やNHKの朝ドラにも出演したことがある。さらに作詞や作曲などの音楽活動もしていた。自身が作詞、作曲をしたデモテープをレコード会社に持ち込み、’75年に『闇のアルバム』でデビュー。音楽の仕事では郷ひろみの曲の作詞を手がけることもあった。また、『まことちゃん』作中に登場する『ビチグソロック』も実際にリリースしている。 ◆楳図さんのキャラクターを初めて立体化 そんな楳図さんが本誌に登場したのは’93年7月16日号。東京・後楽園遊園地で演出、衣裳、音楽、美術まですべてを手がけたお化け屋敷『パノラマ怪奇館』を紹介した記事だった。このお化け屋敷は当時、コミック誌に連載中だった『14歳』に登場するチキン・ジョージや、往年の名作『赤んぼう少女』のタマミなどの強烈なキャラクターが〝生身〟で登場するというものだった。楳図さんはプロデュースの意図について次のように語っていた。 《昔からディズニーランドならぬホラーランドを作りたいと思っていたんです。 今回は若干スモールだけど〝美しさ〟と〝醜さ〟の両局面が同居する世界ができあがりました。ボクの漫画のキャラクターが立体化するのも初めてのことです》 と、この〝ホラーランド〟の出来栄えに、かなり満足した様子だった。そして、企画に1年間を費やしたというその恐怖度についても、《全部見終わるのに5~7分かかりますが、皆さん最後はやめてくれーっ、というでしょう》と自信満々。写真の撮影をお願いするとノリノリで恐怖におののく表情を作ってくれたのだった。 ’95年に『14歳』の連載が終了して以降は漫画作品を書くことはなく、テレビや雑誌でのタレント活動が主となっていた。漫画界の大御所にもかかわらず、レポーターも務めるその明るく気さくなキャラクターは多くの人に親しまれた。 だが、’18年1月にフランス・アングレーム国際漫画フェスティバルで楳図さんの『わたしは真吾』が遺産賞を受賞したことで「よし、新作をやろう」と一念発起。’22年に同作品続編となる101枚の連作絵画『ZOKU-SHINGO 小さなロボット シンゴ美術館』を発表している。 ホスピスのベッドの上でも次回作の構想を練っていたという楳図さん。手塚治虫に憧れながらも、漫画の世界にまったく別の道を切り拓いたその作品の数々はこれからも読み継がれることだろう。 ご冥福をお祈りします──。
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