澤田知可子『会いたい』大ヒットで『紅白』出場の夢を実現…歌詞と自身の実体験にあった“偶然の一致”
CDの売り上げ枚数が過去最高を記録し、コンビニや飲食店では有線放送がBGMだった1990年代。僕たちを救ってくれた「名ボーカリスト」のヒット曲誕生秘話! 【写真あり】1990年、このスタジオで伝説は生まれた 「この曲はあなたに歌ってほしくない!」 1990年冬、沢田(現・澤田)知可子が4枚めのアルバム『I miss you』のレコーディングをおこなっていた最中のこと。ヒットメーカーとして知られる女性アーティスト・Aが、鬼の形相でスタジオに飛び込んできた。室内は一瞬にして凍りつき、レコーディング作業が止まった。 「岩永ってディレクターはどいつ? 誰?」 トーラスレコード(現・ユニバーサルミュージック)入社3年めのディレクター・岩永浩二は、Aの迫力に気圧されながらも、恐る恐る手をあげた。 Aは岩永の前に立ち、堰を切ったようにまくし立てた。 「冗談じゃないわよ! 私との約束をどうして守ってくれないの? デモテープのままアレンジしてって頼んだでしょう。世界観を変えないでってあれほど言ったのに! 絶対に許さない! この曲はもう歌わせない!」 鳴り響く怒号、平身低頭の岩永。スタジオは修羅場と化した。Aと面識のあるアレンジャーの芳野藤丸(AB’S)が間に入った。 「まぁまぁ、A、もういいだろう」 「岩ちゃん(岩永)も、気にするなよ」 Aの怒りは一向に収まる気配はない。すでに、深夜0時を過ぎていた。Aの言葉の刃は、知可子にも向けられた。 「あなたのせいではないけど、このプロジェクトはおかしい!」 Aの罵詈雑言は40分以上続き、知可子はこの日の夜、急性胃炎になり緊急入院した。 知可子は学生時代からAの音楽が好きで、カラオケでも歌ってきた。デビューして2年と少し経って、ようやくAに新曲を2曲、書き下ろしてもらえる機会に恵まれた。まだヒット曲のない知可子にとって、Aというブランドをまとえるのは、千載一遇のチャンスでもあった。しかも、それらはシングルカットが予定されていた。 岩永はデモテープを受け取る際、Aから指示を受けていた。 「アレンジもしてあるので、このとおりに作ってください」 ギター1本で作られたデモではない。リズムやコード進行、全体的な音の構成がわかる音源だった。Aは楽曲を提供する相手が、どんなに実績のあるシンガーだったとしても、「アレンジの変更は厳禁」というルールを課していた。その不文律を破ったのが、26歳の岩永と、まだヒット曲を持たない知可子だった。Aが怒るのも無理はなかった。 「私があこがれていたAさんを怒らせてしまったという申し訳ない気持ちから、胃に穴が空いてしまいました。Aさんが怒っている姿を見るのも、かなりショックでした。事務所のスタッフも、みんな岩永さんを責めていました。『なんてことをしてくれたんだ!』って。私も同じ気持ちでした。これを境に、人間関係がぐちゃぐちゃになってしまったんです」 岩永には、約束を反故にしてアレンジを変更した理由があった。Aから届いた新曲は、佳曲ではあるが、知可子の次のシングルとしては“弱い”と感じるものだった。それだけではない。そもそも、Aに曲を発注したのは岩永ではなく、知可子の事務所の瀬戸豊香社長だった。岩永と瀬戸、そしてAとの間で、楽曲のイメージの共有ができていなかったことが、問題を大きくした。 その後、話し合いを重ねたが、Aの怒りが収まることはなく、Aが書いた2曲はシングルどころかアルバムにさえ収録されず、お蔵入りになった。数百万円のレコーディング費用が無駄になった。 数日後、知可子は退院したが、レコーディングの期日は残り少なくなっていた。心の傷は残ったまま、アルバムの歌入れ最終日を迎えた。 午後10時過ぎ、スタジオに最後の曲の歌詞が届いた。送り主は作詞家の沢ちひろで、曲のタイトルは『会いたい』。岩永は歌詞をプリントし、「お前、これを読んで泣くなよ」と知可子に手渡した。知可子は歌詞を一瞥して驚愕する。そこには、自身の思い出と重なるエピソードがつづられていた。 「岩永さんにあの話をしたことはなかったのに、どうして知っているの?」