甲子園がたどった「光と影の日々」 川上千尋がみた栄光と喪失の百年
■レッツ・スタディー!スポーツ編 開業100年の甲子園《前編》 8月に開場100年を迎える阪神甲子園球場。いまは閑静な住宅街が広がる甲子園かいわいですが、開場当時は全く異なる風景でした。野球ファンとして知られるNMB48・川上千尋さん(25)が、地域の歴史に詳しい丸山健夫・武庫川女子大名誉教授らとともに、ゆかりのスポットをめぐりました。 【写真】旧甲子園ホテルのホールに立つ川上さん。歴史スポットをめぐる動画やポッドキャストも ■100年前は川だった甲子園かいわい 阪神電鉄の「大胆な買い物」 「去年の阪神タイガース日本一、いま思い出しても熱かったなぁ……。甲子園球場がここに100年間、ずっと立っていたなんてそれだけで驚きです」。3月初めのある日、霧雨にけむる甲子園球場を望見して、川上千尋さんはしみじみと語りました。 待ち合わせ場所にした阪神電鉄甲子園駅の東口近く。合流した丸山健夫名誉教授が問いかけます。「突然ですが、この一帯が、かつて『枝川』という川だったのはご存じですか?」 川上さんは「ええっ?」と周りを見回し、自分たちが立っている場所の背後が石垣になっていて、一段高くなっていることに気付きます。「もしかして、これがその痕跡ですか?」 背丈よりはやや低い石垣の上を見上げると、そこには堂々たる松の木が。「そう、これが『川』だったときの堤防、土手の跡なんですよ」と丸山さん。つまり、私たちが立っているこの場所はその昔、豊かな水流に洗われていたということか――。きれいに舗装された地面をしげしげと眺める川上さん。甲子園球場100年史をたどる旅はすでに始まっていたのです。 阪神間エリアを流れ、大阪湾に注ぐ武庫川はたびたび洪水を起こす暴れ川として知られていました。その武庫川から分岐した枝川、さらにその支流の申川(さるがわ)。大正期後半、河川改修で二つの川が閉め切られた際、売り出された川の跡地一帯を購入したのが阪神電鉄。それが後の甲子園球場建設へとつながっていきます。 ■土地の購入価格「410万円」 現代の貨幣価値に直すと? 購入価格は当時の410万円。「現在の価値に直すと、どれぐらいでしょう?」と川上さん。丸山さんは「かけそば1杯が10銭という時代だったので、今700円くらいだとしたら、およそ7千倍だから、287億円ぐらいでしょうか」と解説。川上さんは「え~!」と叫び、「この時代に、そんな大胆な買い物ができたのがすごい。当時の経営陣には、未来の甲子園の姿がもう見えていたのかも知れませんね」とつぶやきました。 「目の前のことで精いっぱいになるのではなく、未来をイメージして動く力ってアイドルにも大事だと思うので……」 かつての枝川の流れが、現在、甲子園エリア一帯を南北に貫くメインストリート「甲子園筋」と重なります。旧枝川に沿って甲子園球場から北へ向かうと、武庫川と枝川の分岐点だった枝川樋門(ひもん)の跡があり、南に下がっていくと海に面した浜甲子園運動公園へたどり着きます。 川の最上流にあたる枝川樋門から河口にあたる浜甲子園運動公園まで、車なら15~20分ほど。平日、しかも雨模様の浜甲子園は人影が少なく、海からの風が肌寒く感じられました。 「実は甲子園球場ができたあと、阪神電鉄はこの浜甲子園のあたり一帯にある施設をつくりました。何でしょうか。ヒントはアミューズメント施設です」と丸山さん。川上さんは悩みながらも「う~ん、もしかして『阪神パーク』?」と正答を返し、丸山さんを驚かせます。 ■初代「阪神パーク」は最先端のアミューズメント施設だった! それもそのはず。阪神パークといえば戦後、球場すぐそばにできた2代目(2003年閉園)が有名ですが、戦前・戦中の一時期(1929~43年)だけ、ここ浜甲子園に初代のパークがあったのです。「知る人ぞ知る」初代の阪神パーク。川上さんは「お父さんから聞いたことがある」そうでした。 「電鉄会社運営とあって、初代阪神パークの園内には、当時最先端だった電気仕掛けの乗り物がたくさんありました。それからパーク内には動物園もあり、水族館も併設されました」と丸山さん。川上さんは「阪神電鉄、すごっ!」と鉄道会社のパワーと情熱に驚いた様子。 しかし、初代パークは戦争の影響で閉鎖され、軍の飛行場として接収される運命をたどります。「パークの残骸が干潮時には海の中から姿を現します。ライオンの頭部をかたどった石像(ライオン像)が有名です」と丸山さん。浴場の湯口か何かに使われていたとみられるそうです。 波の下に見え隠れするライオン像は、どこか悲しげな表情。川上さんは「切ないですね」と、海の中の遺構をじっと見つめていました。 一帯には、娯楽施設だけでなく、様々なスポーツ施設もつくられました。「この横に、2万人収容の『甲子園南運動場』というスタジアムができました。サッカー、ラグビー、アメフット。今の高校生の全国大会や、世界タイ記録を出す陸上の日米対抗戦もやっていました。さらにテニスコートもなんと103面もあったんです」と丸山さん。 「今の東京の明治神宮外苑みたい。全然イメージと違う。なんかバブルで豪華な感じだったんですね」と川上さんは意外そうな表情。丸山さんは「まさに(甲子園一帯は)明治神宮と張り合っていたんです」と付け加えました。 ■甲子園誕生のきっかけは高校野球 第9回大会で起きた「事件」 浜甲子園運動公園の一角には「鳴尾球場跡地」の石碑があります。全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)が第3回(1917年)から第9回まで開かれたのが鳴尾球場でした(第4回は米騒動で中止)。そして、甲子園球場ができるきっかけの出来事も、この球場で起こったのです。 それは、第9回大会の準決勝。甲陽中(兵庫)と立命館中(京都)という関西勢同士の対決でした。丸山さんが解説します。「お客さんが増えすぎてスタンドからあふれました。これは危険だ。お客さんを収容しきれる大きな球場が不可欠だ、ということで、(すでに計画自体はあった)新球場の建設を阪神電鉄が最終的に決断したわけです」 川上さんが「その日、もしお客さんがきちんと収容できていればどうなっていたんだろう」と、歴史の「IF(イフ)」に思いをめぐらせると、丸山さんも「まさに甲子園球場建設のきっかけを与えた試合でしたね」。 ちなみに実際の鳴尾球場は、記念碑がある浜甲子園運動公園から車で5分ほど離れたところにありました。現在は浜甲子園団地となっている場所の一角です。ここにも石碑がありました。碑文には「鳴尾競馬場跡」とあります。 川上さんが「競馬場跡? どういうこと?」と首をかしげる中、丸山さんは「ここには、馬を競走させる1周1600メートルのトラックが一番外側にあって、その内側にさらに陸上競技の800メートルトラックがあり、そして、野球場が二つあったんです」と説明を加えます。大正時代の初め、競馬場内の土地を借りる形で、それらのスポーツ施設を整備したのが阪神電鉄。甲子園球場をつくる前から、この一帯をスポーツの聖地として開発していたことがわかります。 なんともスケールの大きな話。丸山さんによると、ここにあった野球場の観客収容人数は「だいたい3千人くらい」。それが二つあるので、最大6千人ほどになるといいます。 高校野球の観戦でもしばしば甲子園を訪れる川上さんは「現在の甲子園は4万7千人収容ですよね?」と、「甲子園以前」の球場の意外な小ささに驚いた様子です。 24年に完成した甲子園球場は、鳴尾時代に比べると桁違いの収容人数を誇り、さっそくその年の第10回大会の会場として使われました。しかし、開幕数日後には甲子園も満員になったとか。おそるべきは戦前の中等野球人気です。 「この歴史が示すように、甲子園は高校野球のためにつくられたということですね」と丸山さん。川上さんは「夏の大会期間中、タイガースが(ホームの)甲子園を高校野球に譲る理由がよくわかりました」と納得の表情でした。 ■川上さんが「泊まりたかった」名ホテル AKB48のあの映像にも登場 丸山さんは枝川樋門の近くにあり、武庫川女子大学の学舎の一つとしても使われている「甲子園会館」へ川上さんたちを案内します。川上さんは「めちゃめちゃオシャレでレトロですね」と感動した様子で建物内部を見回します。 もともとは「甲子園ホテル」(30年開業)という名のホテルでした。東京の帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトの弟子だった遠藤新さん、帝国ホテル支配人だった林愛作さんを阪神電鉄が招いてきてつくったもの、と丸山さんが解説します。東の帝国ホテルと並び称されるほどの重厚でモダンなつくりが特徴的な名門ホテルでした。しかし、戦争が激化してくると、海軍病院として接収され、ホテルとしての歴史はわずか14年で終えます。 「ええ、泊まってみたかったなあ……」と川上さんは残念そう。AKB48「センチメンタルトレイン」(2018年)のミュージックビデオが撮影された場所でもあると聞き、「そういえば、見たことある!」と目を輝かせました。 そのうえで川上さんは「ところで、なぜ海から遠い、ここにこんな高級ホテルを建てたんですか?」ともっともな疑問。丸山さんは「阪神電鉄は当初、海沿いにリゾートホテルをと考えていました。でも、そのつもりで林愛作さんに現地を見せたところ『こんなところは珍しくない』と言われたそうです。そこでいろいろ探したところ、最終的に、旧枝川の最上流付近で、うっそうとした松林がしげり、大きな池もあったこの場所を選びました。そこはやっぱ『林愛』作なんですね」。 タイガースファンの川上さんの声がうわずったのは、球団の前身である大阪タイガース(1935年創設)の激励会がこの甲子園会館のメインホールで行われたと聞いたときでした。「このホールが、ある意味、タイガース始まりの地でもあるんですか?」 ■なんとここが…「六甲おろし」初披露の会場 でも、意外な謎も出現 球団歌「六甲おろし」が初披露されたのもこの場所で……と丸山さんが説明を進めると、「当時の曲名は『大阪タイガースの歌』ですよね!」と川上さんは先回り。丸山さんは「さすが!」。 ただ、初披露の詳しい様子は謎だそうです。 「参加者に配られたメンバー表に歌詞が記載され、レコードも配られたようなんです。それがかかったのか、バンドが生演奏したのか。お披露目されたのは間違いないですが、そこが明らかではないんです」と丸山さん。 誰かが書き残すだろうと皆が思うような歴史的な出来事ほど、案外、記録がない。歴史のポテンヒットともいえるような「謎」の出現に、川上さんはむしろ「歴史って、こういうところが面白いですよね!」と興奮気味でした。
朝日新聞社