LFA2が発売間近? たった500台が作られた[LFA]は第2世代になにを託すのか?
2009年の東京モーターショーで、2000GTを超えるスーパースポーツとして登場したレクサスLFA。一時は開発凍結の危機にもさらされつつも発売に漕ぎつけ、傑作と評された。あのクルマはどのように作られ、後世に何を伝えるのか。15年前を振り返ってみた! 【画像ギャラリー】当時の写真をたんまり!胸アツなLFAのお姿はここから!(32枚) 文:山本シンヤ/写真:トヨタ、ベストカーWeb編集部
■「天使(テン・シ)の日」に思い出すクルマといえば……
ちょっと過ぎてしまったが、10月4日は10(テン)と4(シ)の語呂合わせで「天使の日」だそうだ。天使と言えば森永製菓のエンゼルマークが有名だが、自動車業界では「天使の咆哮」と呼ばれたV10エンジンを搭載したレクサスLFAを思い出す。 LFAはトヨタ2000GT以来となるコーポレートトヨタを象徴するスーパースポーツだが、2009年の東京モーターショーで世界初公開されてから15年が経過。あのクルマは一体何者だったのか?振り返ってみたい。
■一時は市販化凍結の危機に!
プロジェクトのスタートは2000年。「コーポレート肝いりの大プロジェクトが始動」と言いたいところだが、実際はその逆。社内の新車開発プログラムに組み込まれていないだけでなく、商品化すら決まっていなかった。 ちなみに"正式"なプロジェクトとして認められたのは2005年、商品化が決定したのは2007年だった。しかし、2008年にリーマンショックの影響で創業以来の赤字に転落、市販化凍結の危機にも……。 しかし、評価ドライバーの一人として開発にも関与した豊田章男社長(当時)は発売を決意。ただし、限定500台のみ……。 チーフエンジニアを任された棚橋晴彦氏は、このクルマを開発する上で、「性能や速さはもちろん、『乗ってどう感じるか』と言う数値に表れない官能性を大事にしたい」と言う強い想いから、評価・味付けは合議性を取らず、一人のドライバーに委ねた。評価ドライバーの頂点に立つ初代マスタードライバーの成瀬弘氏だ。 成瀬氏は「このクルマはニュルブル(氏はニュルブルクリンクの事をこのように呼ぶ)でないと鍛えらない」と断言。開発はドイツ・ニュルブルクリンクを中心に行なわれた。